間隔.
好きと嫌いの間には莫大な距離が横たわっている。
「きらいだ」と、彼は苦々しく眉根を寄せ、まるで苦虫でも噛み潰したかのような表情で言ってのけた。きらい、きらい、きらいだ。すとん。と、どこか身体の内部にしっくり納まる言葉。不快ではない、不快ではないのだ。寧ろ、ある種の清々しささえも感じずには居られない。これでいい。俺はゆうるりと唇を揺らし、くつくつと咽の奥で笑ってみせた。すると彼はやはり、む。と、苛立ちをちっとも隠さずにその眼光を強める。普段から思うが、彼はあんまりにも自身の感情を露見し過ぎのようだ。これでは相手の思う壺ではないか、実に彼らしい。そうやって、何時までも相手に嗤われていれば良い。実に可哀相な、可愛い彼。
ねえ。と、もったいぶって切り出す。彼は苛立ちの色をより一層濃くしてみせ、ぴきぴきと青筋を立てた。ここで調子に乗って、更に彼を待たせるような愚かしいことはしてはならない。彼は短気だ。そして案外に俺は馬鹿ではないのだ。脳内で捏ね繰り回され吟味され、ようやっと捻り出された言葉を、噛んで失態を見せることの無いように、充分に注意して吐き出す。その際に、彼の琴線に触れるように、余裕のあるような表情も忘れてはならない。口角を吊り上げた。
「好きの反対は何だと思う?嫌い?そうじゃない。好きの反対は、好きじゃない。だ。嫌いの反対も同様に、ね、嫌いじゃない。なんだよ。ねえ判るかな?好きじゃないからと言って、嫌いだとは限らないだろう?そこには言葉ならではの、絶対に覆せないニュアンスの溝、隙間、差が生まれる。だからこそむつかしいよね。逐一、君の事は嫌いじゃないけど好きでもないんだ。とか、二重の否定を成さねばならないなんて、実に面倒、滑稽なことだとは思わないか?まあそれと言うのも、そのニュアンスの差に漬け込んで、自身の良いように解釈するような、そんな醜悪で惨めな輩が居る所為なんだけどね。はは。相手の表情や声色。そして何よりも自らの相手に置ける立ち位置を考えて、相手の意思を汲めるような、そんな風にキレる奴ばっかだったら、そんな差なんて無視して放って置いても良いでしょう?ね。つまりこの言葉における面倒くささと云うものはさ、人類が自らの頭脳の弱さによって生み出された、所謂垢のような物だと思うんだよね。それで」
バキッ。するすると調子良く連なる言葉の羅列たちに、自分でも陶酔しかけながら語りかけていると、そんな鋭い騒音が鼓膜を引っ掻いた。見れば、彼の右手は傍に生えていた標識の棒を握り締めて、そしてそれを不恰好に折り曲げていた。彼の目は今や獅子のように獰猛に光る。ぞくり、背中が粟立った。俺はこの瞬間が大好きだ。緊張感、危機感、恐怖。そうしたそれらが一緒くたに混ぜこぜになって、訳の判らない、正体不明の感情へと変化する時。いやはや脳内麻薬、モルヒネ、その類のようだ。脳味噌がくらくらと酔って、びりびりと痺れて、とろとろと溶けてゆく。悪くない。悪くない、悪くない悪くない悪くない。俺は一層笑みを濃くした。彼の罵声(怒声?)もあまり耳には入らない。ああ、良いね、やっぱり。彼はそんな風に怒れる姿が一番美しい。
「だからさ」次々と飛んでくる自販機やら標識やらを避けて、彼の目の前へ。驚いたように、まんまるうく大きく開いた目が可笑しい。そしてそれに俺の姿が映っていることもまた可笑しい。彼の耳に良く響くように、俺は心持ち更に低くした声で続けた。
「だからさ、好きじゃない。や、嫌いじゃない。は、どうでもいい。ととても良く似ている。無関心と酷似しているんだ。何も思わない。それと同義のようなものだと思うんだよね。つまり、つまりだ。きらい、と言うその感情は、つまり」
すき。と同じ部類だ。
(それを聴いた彼の瞳が、ぐぐ、と歪むのは、酷く美しかった。)