円を描く憐憫
ね、神さまにそこまで愛されるって、どんな気持ち?
己、竜ヶ峰帝人は長い長い間、電車の揺れる振動に微睡みながら椅子に座っている。携帯でわざわざ一番時間を要するルートを選んだのだから当然のことで、そろそろ鈍る身体が退屈を申し出る頃合であった。
この長く鈍行な旅路は今朝から始めていた。乗ったことの滅多にない時間帯である早朝に出る始発ですら、車内には人の気配が隅々まで息を潜めて張り付いていて、若干の興奮と伴に眠気はあまりなかった。次第に通勤ラッシュへ入り、人の詰まった電車に少しばかり酔いつつ、結局手放すことの出来なかったパソコンを抱えて縮こまる。人口過密の頂点となる時間が過ぎ、陽が高くなってきたあたりで一端下車をし、駅からさほど離れていない処にあった定食屋で昼食を摂った。それからまた電車に乗り、本も音楽も一切絶って眠気だけを片手に逃避をゆく。
別段これといって挙げるきっかけはない。強いて言うならば、お付き合いを長年している恋人がこの度目出度く(?)両手両足足りなくなる程の浮気を達成した翌日であった。己がまだいとけないともいえる高校生の時から交際をしているひとで、薄情と人でなしといけない大人を絵にしたような、そんな恋人の名前を折原臨也という。友人たちは口を揃えて考え直すように言い含め、はっきりと別れた方がよいとも心からの忠告をしてくれたが、その選択は採決しなかった。寧ろ、いつどうやって祝ってくれるかどうかを困惑する面の皮の一枚下で考えていたくらいで、散々外道な行いをしてきた臨也の生まれて初めての、極めて真摯な交際は周囲から信じられるまで暫く掛かったものであった。
勿論、最も最初に疑いを持ったのは己である。とてもとても素敵な非日常へ誘ってくれるかのひとになら、騙され使い古され捨てられてしまってもよいと思っていたのだけれども、いつになってもひどいことをしようとはしない。油断した処をぱくりとやってしまうのだと思い込んでいたのだが、予測に反してまだ何もしない。拒めばキスもしない。造作の大変優れた面を独占出来る日々に充足をして、まあ裏表があろうとなかろうとどちらでもよいと結果ふっきれた。そんな心の動きを察した恋人は口と裏腹に求める此方の言う通り、好ましい強引さで関係を進ませてくれたのだし、年上のひとのリードに甘え、頬を染めながら、愛しいひとの腕の中でときめくのもわるくはないと納得をした。そんなふうに、お付き合いをしていた。
恋人が浮気をするようになったのはここ最近のことである。付き合い始めはお得意の手管の一つであろうと考えていた、交際関係を清算して己一人に絞りることとは、全く反転したことを臨也さんは始めた。とうとうこの歪ながらもしあわせであった関係も終わってしまうのかと、長くお付き合いをしていた為に降り積もったものもあってそれなりに哀しんだ。大学に進学しても親交の続く友人たちに、何処かやはりという思いと信じていたが裏切られたという顔で慰められた。だけれども、年月で培ったものはそんなときもあろうかと、重ね続けた予防線の助けも借り、自身の心を修復する術を実行に移させたのである。
がたんごとんと、ありきたりな表現を使うことになっているけれど電車のそのような揺れに身を任せながら微睡んでいる。無機質な社内アナウンスが流れ、終点を報せた。素直に従って下車をする。適当に辿り着いたのは色褪せ寂びれた辺境のホームである。身辺の整理をした末に残った少しの手荷物を肩に掛け、歩き出す。目の端に見えた海へ向かう。そうして歩いて数十分、目に付いた淡泊な目的地へと辿り着く。季節は冬を引き留められなかった春であり、まだ潮風は幾分肌寒いものがある。
思い返すのは恋人のことである。臨也さんは最初に、誤解する余地もすっかり排除し、意志の輪郭もくっきりとのたまった。
俺は人類がすきで愛しているけれど、恋をしたことがないんだよ。けれど君に、大いに例外的に、至極信じられないけれど、正しく落ちるようになると初めて知った、恋をしたんだ。責任をとるのは当たり前だよね、と。
長いお付き合いになったから、随分懐かしいものになっている。臨也さんは初めての恋に試行錯誤して、もどかしさに足掻きながら、己を大事に大事にした。けれど己は信じない。否、信じながらにして信じない矛盾を孕み続けていた。長く経って、臨也さんは目が覚めたように、これまでと真逆のことを始めた。つまりは分かり易く浮気を繰り返した。
すきになって、すきを返されて、相手の心を手に入れたと思えば、その心を疑うことは当然で。そんなことも知っていながらにして実感がなく、気が付いていない臨也さんは、恐らく哀しかったのだろう。すきなのに気持ちを疑うことをやめられない、己が感じるような哀しさと、色形は違えど似通ったものを。だが、嬉しかったのだ。己と同じくらい、相手を渇望してくれた、臨也さんの心の動きが。思わず今までにない程ときめいてしまうくらいに。
臨也さんは多分もうすぐ、このパートナーの居ない駆け落ちに気が付いて追い着くだろう。ここいらで一旦、心の深い処を擦り合わせてこなかった己らから逃げて置いてけぼりにして、切り離してしまわないと、いつまで経っても平行線を辿る羽目になる。そう思って踏み切ったのだから。確信を傲慢にも覚える程には、愛されているのは知っている。知っているからこそ、心と身体を物理的に遠距離離すことも出来た。そんなことをしてしまえる己が恋人になったことが、恵まれ生まれてきた臨也さんが出逢った不幸せ。だからきっと真に恋することも、ようやく出来る。それを虎視眈々と狙ってきた己に離してもらえないのも、また不幸せ。不幸せは同類を連れてくるみたいで、臨也さんが少しかわいそうになって、微笑みを一人で浮かべる。
車処か人も居ないので、やっぱり臨也さんは徒歩で来るだろうか。と、己を呼ぶ余裕のない声がした。息を切らしているようにも聴こえる。まさか走ってきているのだろうか。
そうなれば砂浜に二人分の足跡が残るまで、あと、僅か。