陰踏み
「やっと、一つになれるね」
彼女が頬を少し緩ませ柔和に笑った。月光が彼女の笑みにスポットを当てるように、照らしていた。もう、戸惑い、躊躇いを捨てた顔だ。相変わらず握った手は氷のように冷たい。
何もかもが歪に見えた。壊れて見えた。
一体どこで間違えた?生まれたときから?でもいい。彼女がいればいい。
僕は4月にとある中小企業に入社した。しかし、その中小企業で上司によるパワハラを鬱になるまで受け続けた。完全に鬱になってから、会社は退職した。
彼女も働いていたのだが、同期の社員からセクハラやいじめを受け、同じく退職。
その後も職を転々としたが、結果は同じだった。
どちらにせよ、社会という壁は僕らの存在を拒み続けたのだ。
住んでいた2LDKのマンションも家賃が払えず追い出され、車に乗り、ここに来た。
「ここら辺でいいかな」
僕が大きな樫の木の前で足を止めた。ちょうど窪みもあるし、ここでなら寄っかかって、2人でいれるだろう。
彼女がさっき買ったお菓子を開け、僕に「食べる?」と優しく聞いてきた。
僕は彼女がつまんでいるクッキーを食べさせてもらった。
「はい、あーん」
甘じょっぱいクッキーの味が口全体に広がり、少しだけ気分が安らぐ。彼女も小さな口を懸命に動かしながらクッキーを頬張る。
「最後くらい、好きなもの食べたいよね。正に、『最後の晩餐』」
今の時間は午前2時30分なので、時間的には夜食だろうが、特にそんなことはどうでもよい。僕はメロンパンの袋を無造作に開けた。
「ひーちゃんは、クリーム入りのメロンパンがすきだねぇ」
うん。と小さくうなずき、一口食べる。ああ、やっぱりこの味が好きなんだな。この果汁なんかほとんど入っていない菓子パンの味がなぜこんなにも心をときめかせる?
食べ終わり、一呼吸置いて、彼女の目を見ながら言った。
「さて、じゃあ、いこうか」
僕が言うと、彼女は上を澄んだ瞳で見つめた。その目の先には、空があるのか。それとも、死後の世界が映っているのか。
僕が睡眠薬の錠剤を口に入れれるだけ入れ、水で流し込む。
彼女もそれにならえ右で、飲み干す。
「・・・手を握っていて」
小さく小指を差し出す彼女。落ちていく意識の中で僕も小指を握った。
「神様、どうか愛してください。こんなにも脆くなってしまった心を。神様、どうか許してください。こんなにも身勝手な行いを」
そして、光子が最後にこう言った。
「だいすきだよ、ひーちゃん。忘れないでね、これで終わりじゃないということを」
どこからか足音が聞こえる。
混濁していく意識の中で、彼女の笑顔だけが焼き付いて消えなかった。
やっと重なった。あなたの影と。