比翼の鳥 連理の枝
私が英国に参りましたのは、もう随分と昔の事でございます。
長く鎖国を続けておりました日本が開国し、外国から賓客を迎える様になりまして、
西洋風のもてなし方の礼儀などを弁えた者が必要になりましたものですから、
今上天皇様より“西洋風の貴族風を学ぶべし”との内命が夫に下り、
私も西洋風の貴婦人風を学ぶ様にとのご命によりまして同行したのでございました。
伊太利亜国まで船旅をいたしまして、後は陸路で仏蘭西国まで参りました。
英国での社交に恥にならぬ様に巴里の洋装店で最新の型の洋服の仕立てなどして、
西洋風の用意をいたしましてから英国に赴いたのでございます。
倫敦に着きましてからは英国語や風俗、舞踏、ピアノなどを学びました。
そうした準備を整えましてから、
“ざ・しーずん”と呼ばれる社交の時期を迎えたのでございます。
ほとんど毎夜の様にどこかの御屋敷で社交の会が開かれておりまして、
お招きを頂きます度に夫と共に出掛けて参りました。
あの夜は、ある侯爵夫人様の主催なさる夜会に出向いたのでございました。
会場に到着いたしまして主催の侯爵夫人様にお招き頂いたお礼を述べましてから、
このところの社交の会で顔見知りになりました方々と歓談しておりました。
暫くした頃、ふいに会場がざわざわとして参りましたので、
何事だろうかと入口の方を窺い見ますと、
そこには大変身なりが良く、右目に黒い眼帯をした小柄で華奢な美しい少年と、
後ろに寄り添うとても背が高く細身の麗しい青年の姿がありました。
歩く様も気品に溢れ優雅でございまして、
私は、まるで西洋画の中から抜け出たかの様なお二人に息を呑みました。
なるほど、会場の皆様方がざわめかれたのも得心がいくと思っておりましたら、
主催の侯爵夫人様がお二人を私どもにご紹介下さいました。
少年は由緒ある家柄の伯爵様でいらっしゃって、
玩具と製菓の会社の経営もなさっているとのお話でございます。
青年は伯爵の執事だという事でした。
年若いこの伯爵様は、社交の会には滅多にお出ましになられないのだそうですが、
日本という遠い国から英国風の社交を学びに来た私どもの為に、
叔母様である侯爵夫人様がぜひ来るようにとお口添え下さったご様子でした。
あまり長くない間お話をさせて頂いたのでございましたけれども、
少年は陶器のような白い肌に薔薇色の唇で、
透明な空色の瞳は強い意志の光を宿し、大きな目の縁には濃く長い睫、
紳士の服でなければ少女と見紛う、いいえ、少女よりも愛らしい面立ちですのに、
高い知性と教養を感じる、とても大人びた会話の仕方をなさいました。
濡れ羽色の黒髪が映える白皙の青年は、
鼻筋が高く通り、紅茶色の瞳の切れ長の目も妖しげな華のある顔で、
後ろに控えているだけでも人目を引いているのでしたが、
東洋の文化について伯爵にそれとなく耳打ちしている様子から、
彼の知識の広さを窺い知れたのでございます。
他の方々とお話をしておりましても、つい目の端でお二人を探してしまいます。
気の難しい方として知られていると教えて下さった方がおありの通り、
話しかけられても意に染まないお相手ですと適当にあしらってしまわれるご様子で、
それでも執事が取り成すと幾らかはお話をなさいます。
険しいお顔つきになられる頃を見計らったように執事が飲み物などをお持ちして、
人だまりの少ない辺りへとお連れして行きます。
楽団の支度が済み舞踏が始まりますと、
舞踏を楽しむ方々の周囲に出来た人垣から離れ、壁に凭れておしまいになられました。
身長が違い過ぎる所為なのでございましょう、
少し腰を屈めて執事が伯爵様に何事か話しかけます。
渋面で見上げて一言二言お答えになられ、伯爵様はぷいと顔を逸らせてしまわれます。
執事はやれやれとでもいう様な顔で見降ろしておりました。
私は舞踏のお誘いを受けて踊っている合間にもどうにも気になりまして、
ちらりと遠目にご様子を窺わずにはいられませんでした。
踊る方々の周囲にある人の輪からは、曲が終わる毎に、
紳士や淑女が入れ替わり立ち代わり舞踏に興じに行かれるのですが、
伯爵様は凭れた壁から一向に離れていらっしゃいません。
どうやら伯爵様は舞踏がお好きではない様にお見受けいたしました。
私が一息つく為に人の輪に紛れ、また舞踏に加わりまして、
次にお見かけした時には、
開け放たれた大きな窓から張り出しへと向かわれていらっしゃるところでした。
歩を進めながら前をお向きのまま伯爵様がお話しなさったのに執事が答えますと、
あどけない伯爵様の横顔から、お年頃からは考えられないような、
艶が滲み出る様な笑みが溢されたのでございます。
執事も色香を漂わせるような目をして伯爵様の後ろで口の端を上げております。
私はその様にどきりとしてしまいました。
秘密を覗き見てしまったような心持ちと言えばお分かり頂けますでしょうか。
心の臓が早鐘を打ちまして、舞踏になど身が入りません。
これだけ多くの人が会場にいらっしゃるというのに、
どなたもお気付きになられないのが不思議でならないくらい、
とても強く色めいた雰囲気がそこにはあったのでございました。
ですが、何故でございましょうか、厭わしいという気持ちは全く起きなかったのです。
寧ろ、私の脳裏には、
地にあってはそれぞれに歩くけれども、空を飛ぶには対であらねばならぬ比翼の鳥。
若しくは、慕いあいながら引き裂かれても猶、
互いの墓から芽を出して枝葉を絡みあわせ、根も繋がってからむ連理の枝。
そのような事が思い起こされていたのでございます。
どちらが欠ける事も許されない完璧な一対の様に感じられ、
このお二人は共にあり続ける命運をお持もちなのだとしか思えないのでした。
倫敦に滞在した間、沢山の社交の会に参りましたし、
英国女王陛下と皇太子殿下ほか、王室に繋がりの深い方々への面謁も叶いましたが、
もう二度と少年伯爵様とその執事に出会う事は無かったのでした。
日本に戻りましてからも、あの夜会の特別な様子は忘れた事がございません。
胸の内にだけしまって、夫にさえも語らずにおります。
あれからの年月を数えますと、伯爵様はすっかり凛々しい青年になられておいでで、
ご身分を思えば、既にしかるべきお家柄のご令嬢を娶られ、
お子様もお生まれになられているかも知れないのが当然なのでしょうけれども、
私にはそのようなお姿を思い浮かべる事が出来ないのです。
凛として立つ美しい少年伯爵様と、お傍に控える麗しい青年執事、
その間に他の誰かが割って入る有様を想像する余地を見いだせないのです。
遠い英国の地のどこかで、今もお二人が寄り添っていらっしゃいますようにと、
私は祈るような気持ちで思い続けているのでございます。
END