約束
あの夜は、二人で過ごす最後の夜だった。というのも、彼女は出ていく事を決めて、彼は留まる事を決めていた。
どうしてそんな結果になったのか―なんてことはない。歴史の悪戯、ささいな隙間、僅かな誇り―たかだかそんなもの。そんなものの為に二人は犠牲になったのだ。
彼女は彼がもう長くないことを知っていた。恐らく彼も、彼女以上に知っていた。だから最後のときに、こんな言葉をつい紡いでしまったのだ。
もしこれで最期ならば―
彼女は隣の彼を見つめる。不意に吐いた言葉なのだろう。彼が慌てて口を塞いだのが判った。
何よ…言って?と、彼女は言う。聞いたら傷付くのは判っていた。それでも聞きたかった。傷付くからといって逃げる程、彼女は弱くなかったのだ。
彼は観念して言う。
もしこれで最期ならば、多分俺様は明日にでも明後日にでも明々後日にでも消えるだろうな、と。
彼女は頷きもせずに否定もせずに、ただ彼を見つめる。彼は続ける。
もし消えても、まぁ、どうせだからな、この髪にちなんで雪にでもなってやるよ、と。
どうして雪なの?と彼女が聞けば、大量の雪になればイヴァンが困るだろう?あの野郎に意趣返しだぜケセセセ―と嗤う。子供じみた、しかし彼らしいと彼女もくすくす微笑う。
それに雪になれば、ルッツにも逢いにいける。フェリちゃんにも逢える―懐かしい顔に逢えるだろう?
雨じゃ駄目なの?と問えば、雨じゃアーサーの野郎じゃねぇかと返される。それもそうね、と彼女は頷き、じゃあ私にも逢いに来てくれるわね、と戯れに吐く。すると彼は少し嬉しそうな表情で、まぁ、仕方がないからお前にも逢いに来てやるぜ、と笑い、
お前との記憶の分だけ降ってやるよ、と
小さく呟く。
だから、だから―
その時は悪いけれど、思い出して欲しい、と。
馬鹿な男だと思った。そんな身勝手な話はあるものか。そんなのは絶対に許さない、許してやるものか―。
だけれど、そんなことを彼女が言える筈がなかった。
どんな思いでそんな言葉を吐いたのか、想像するまでもない。調子者でがさつで乱暴者の、意地っ張りの彼を彼女はまたよく知っていたからだ。
だから彼女は頷いたのだ。
仕方がないわね、と。
雪の日だけでも、あなたのことを思い出してあげるわ、と。
それを伝えた時の、彼のほっと安堵したような表情はきっと一生忘れないだろう。
そうか、と彼は少し微笑って、
だからせいぜい足掻いてみなさい、と彼女も微笑ってやった。
それから戯れのようなキスをして―それで終わり。
それから彼女は彼に逢っていない。
だからだろうか。
こんな雪が降る夜は、彼のことを思い出す。
馬鹿な奴だったなとか思い返せば迷惑な奴でほとほと困るしときどき昔の具合の悪い事を思い出しては恥ずかしくなったり怒ったり懐かしい愛おしいような子供時代の記憶を引っ張り出して―笑いながらも、
しとしとと頬を伝う液体が冷たいのは、きっと夜が冷えて寂しくて、雪が降るからだろう。
思い出せば出すほど、狂おしいまでに胸が軋む。
それでも彼女は約束したのだ、思い出すと。
だから―忘れてなんかやらない。