零れ落ちた欠片
荒く息を吐く平古場は、立っていることもやっとの状態だった。膝に手を付いて対角線上に立つ男、部長である木手を険しい顔で見据える。
入部して以来、未だに一度としてテニスの試合で勝利したことがなかった。挑んだ勝負に負けたのはこれで何度目になるのかと考え、片手を超えた所まで数えたが、空しくなるだけだと分かり数えるのを止めてしまった。
一瞬歪んだ視界に限界を感じて、コートに座り込み立てた膝に頭を乗せて項垂れた。肩で息をしていると、平古場の呼吸音に混じり、靴が砂を踏む音が聞こえてきた。視界の隅に見慣れた木手のラケットが映りこむ。歩幅二歩分ほど離れた場所で木手は立ち止まり、腰に片手を当てて、蹲る様に座り込む平古場を見下ろした。
「気は済みましたか」
「ぬー、いっちょんばぁ……。まだ、やっし……」
「……そんな状態で、よく言えますね」
息も切れ切れで、声を出そうとしても空気ばかり出て上手く声が出なかったが、呼吸の合間に何とか声を絞り出した。上から降る声も呼吸が乱れていて、微かに疲れが滲んでいるようだった。
それもその筈で、平古場は負けることが悔しくて、何度も木手へと試合を申し入れていた。始めは何も言わずに平古場からの挑戦を受けていたが、さすがに途中からは、呆れたような顔をしていた。
けれど、木手は練習試合だからといって手を抜くことは一度もなかった。最後の一球まで、力の差を見せ付けるような打球だった。だからこそ、木手との力の差を痛感する。一度も勝てずに終わることが悔しくて、最後は意地になって挑んでいた。面白がって見ていた部員達も、終わらない試合に飽きたのか、いつもの平古場の気まぐれだと思ったのか、一人、また一人と帰っていき、そして残ったのは木手と平古場の二人だけだった。
立ち去る他の部員達の『勝てないのだから、諦めろ』、そんな心の声が音にならずとも雰囲気で伝わってくる。そのことが、とてつもなく嫌だった。
勝てないと諦めてしまえばそこまでだ。「お前らは勝ちたくないのか」そう何度も声に出して叫びたい衝動に駆られた。たとえ、勝てない相手だろうと挑むことを止めること出来ない。止めて終えば、きっとそれ以上強くなることも、前に進むことも出来なくなってしまうからだ。それだけは、許せなかった。
テニスラケットを初めて握った日、同じように木手と戦って、思い出したくも無いほど無残な負けを心に刻み付けられた。あの日、家に帰り着いた平古場は部屋で静かに涙を零した。その涙は誰にも知られることは無かったが、平古場の記憶にいつまでも消されることなくこびり付いていた。
その記憶を打ち消すためにも、強くなりたかった。
目の前に立ちはだかる男よりも、もっとずっと強く。
「勝ち逃げは、ぜってぇー許さねぇからな!」
「何を言い出すかと思えば……。君と後何試合しようが、俺が負けることはありえません」
嘲笑と共に送られた言葉は、平古場以上にプライドが高いことが分かる。自身満々な返答に、言い返す気力すら残っていない平古場は舌打ちしか出来なかった。
沖縄の夕暮れは本土よりも遅い。まだ日は傾きかけてはいないが、空には夕暮れの気配が静かに訪れていた。真っ青な空が今はもう薄い色へと変化していた。もう、さすがに終わらなければならないと心の片隅で思うのに、その言葉を口にすることを躊躇ってしまう。それを言えば、本当に負けを認めてしまう様で酷く嫌だった。
負けたままで終わりだなんてプライドが許さなかった。
それがたとえ特別な感情を向ける相手でもだ。いや、だからこそ尚更負けたままでいることが悔しかった。
そんな考えに捕われていた平古場の頭に軽い衝撃が訪れた。「返事くらいしなさいよ」という声と共に、もう一度軽い衝撃が訪れる。どうやら木手が手に持っているラケットで、平古場の頭を軽く叩いているようだった。手のかかる子供をあやすような仕草に苛立ちを覚える。
もう一度、軽い衝撃が来た瞬間にラケットを掴み木手を見上げる。少し驚いた顔をしていたがすぐにその表情を消し去った。その次に現れた表情は、やっとこちらを向いたのかと呆れた様な、困った様な顔で平古場を見下ろしてきた。
試合中は恐ろしいほど表情を変えず、冷静かつ冷酷なまでの鋭い瞳を宿し、殺し屋の異名に相応しい重圧を漂わせていた。コート上では射殺されるような視線に晒されていたのに、今はその面影はどこにも無く、手の掛かる部員の面倒を見る部長の顔だった。
平古場は、そんな木手の視線が嫌いだった。
他の部員と同じような瞳を向けて欲しくなかった。他の誰よりも追いつき追越したいと思っている。他の部員よりもずっとずっとお前の傍に近づきたいと願ってる。
他の部員よりも、クラスメイト達よりも、そして――幼馴染の二人よりも。
平古場が胸に秘めた"特別"の感情を、木手にも持って欲しいと願ってしまう。
無言のまま視線を外さない平古場を不思議に思って見下ろしていると、ラケットを引っ張られた。
成すがままに引き寄せられ平古場を見つめていると、そっとラケットに顔に引き寄せたかと思うと恭しく口付けた。衝動的な行動だったため我に返った平古場は、血の気が引く思いがした。
顔を上げて木手の表情を見ることが出来なくて、素早く立ち上がって木手へと背を向ける。
振り返って木手の顔を見る勇気すらない。そんな自身の臆病さに苛立つ。けれど、ラケットに口付けたことを後悔する気持ちは一切無く、だから謝ることはしたくなかった。そんな二つの感情が渦巻く胸を抱えたまま、平古場は一歩前へと足を踏み出し逃げるように立ち去った。
突然の平古場の行動に、呆気にとられて言葉を失くした木手は、そのまま立ち去る平古場の背中を見送ることしかできなかった。
木手のラケットに平古場の唇が触れた瞬間、まるで自身に口付けされた様な錯覚に陥った。ラケットは確かに体の一部みたいなものだ。もうずっと長い間、苦楽を共に過ごしてきた。
何よりも平古場が、とても大切なものを扱う様に口付たその仕草から目が離せなかった。何故そんなことをしたのかと問質したいのに、問うのを躊躇ってしまうほどの真剣さが木手へと伝わってきた。
だからだろうか、ただラケットに口付けをされただけなのに、こんなにも全身が心臓のようになって鼓動を刻んでいるのは。
追いかけることも、声をかけることも出来ず、遠ざかる姿を見つめながら、木手は無意識に口を掌で覆っていた。
金色の髪が風に揺れて煌いている。
そして、そのまま遠ざかる背中は振り返ることはなかった。