鴉を殺して明ける夜に
げほりと、血が喉を押し上げて掌にぶちまけられた。慣れ親しんだその感覚に半兵衛はぜえと息を吐く。血色に染まったてのひらは、医師の見立てよりも正確に半兵衛の今の状態を彼に知らしめた。
布団に伏せった半兵衛の傍らに正座する三成は、それを静かに見つめた。手ぬぐいを寄越す素振りすら見せぬし、どころかその眼差しには半兵衛を気遣う色が微塵も伺えない。
ひゅ、と喉を鳴らして半兵衛は三成を見上げた。色の薄い三白眼は、ただ静寂を守って半兵衛を見下ろしている。そこには、心配もない代わりに半兵衛の病への厭いや恐れもない――ただただ、もう価値のなくなった者に対する、微かな憐憫。
半兵衛はそれに怒る気にはならなかった。そう、もう自分に価値はない。あの至高の太陽のために生きられなくなった、今はもう死に逝くだけの自分に。
(ひでよし)
半兵衛は胸中だけで(何故ならもう声が出ないので、)呟いた。ひでよし。秀吉。どんな苦しみの底でも、その名を呼んで、姿を脳裏に浮かべるだけで、自分でも可笑しくなるほど力が沸いてきた。死ねないと。死にたくない、ではなく、ただただ強烈なほどの死への――そちらに身を任せた方が余程安楽であることを知って尚の――忌避が起きる。
(ひでよし、)
けれど。けれどもう、その名を呼ぶ権利は、自分にはない。――彼を守れない、彼のために生きられない自分には、もう。
「竹中様」
青年の冷たい声が半兵衛の耳朶を打った。そちらを見上げる。秀吉の子飼い。その主へ向ける狂信じみた敬愛も、冷たい策謀のためにしか使われない頭の中身も、たった一つのために全てを捨てた狭窄さも、全てが愚かしいほどに己と似通っている、子供。その薄い唇が開かれる。
「どうも、お疲れ様でした――後のことは心配なさらないで下さい」
私が、居ますので。そう続けられた言葉に、半兵衛は口元が歪むのを必死で耐えた。
そのたった一言だけを伝えに来たのだろう。す、と立ち上がると彼はそれから一瞥もくれずに部屋を出て行った。とん、と閉められた襖の先へ、半兵衛が行くことは叶わない。
(……ひでよし)
私が、居ますので――己と言うものが完全に排除された声で紡がれたその言葉。そう、あの子はきっと半兵衛と同じように秀吉に仕えるだろう。彼の天下のためならあらゆる尽力を尽くしてくれるだろう。けれど、それでも。
(あのこは、ぼくじゃ、ない)
秀吉がこの世の何より愛し、天下と同じくらいに――ひょっとしたら天下よりも――望んだあの女性を殺したとき、無二と親しんだ友と袂を分かったとき、己が主に反すると決めたとき――彼の悲哀を、孤独を、絶望を、自責を。絶えず側で見てきた自分では――ないのだ。
(ひでよし、)
彼女も友も魔王も居なくなってしまったこの世界で、半兵衛までいなくなってしまったら。
(君は本当に、孤独になってしまう)
半兵衛が恐れるものはそれだけで、そしてそれだけが死よりも怖くてたまらないのだ。
作品名:鴉を殺して明ける夜に 作家名:上 沙