月へ想ふ。
まるで、まっくろに浮かべた、まあるい月のようだった。
彼はベランダにぼおっと突っ立って、ゆるりと手摺りに肘を置いていた。右手に携えた煙草は、蛍みたいにちいさな灯りを灯している。彼の薄い唇が、ふう。と、かろく煙を吐く。踊るように舞い上がり、細くたなびいて、それは宵闇へと霧散した。ゆらゆら、ゆうら。彼のきんぱつは、夜風に吹かれてしゃらしゃらとさざめく。それは灯りもないのにぼんやりと光を灯し、きらりきらり、と、まるでちいさな星達と呼応しているかのようだ。その様のあんまりな美しさに、俺はつい、あ。と微かにこえを漏らしたが、それさえも、彼の鼓膜を震わせることなく、夜風に吹かれて紛れるのだ。
彼の纏うシャツの端っこが、はたはたと揺らぐ。彼は何故だか近寄りがたい、何物も受け付けないような雰囲気であった。その鋭利さと言ったら。だけれども、それが彼の、弱さを隠したフリであることはもう判っていた(鋭利なものほど脆くて刃こぼれし易いのである)ので、そっと、名前を呼んでみようと思った。シ、ズ、ちゃん。それは掠れてなぞ居なかったが、案外にもか細く、頼りない響きであった。しかし弱々しいそんなこえでも、彼の鼓膜を震わせるには事足りたようで、彼は、普段ではあまり見せない、ちょっとだけ気の抜けたカオして振り向いた。今、呼んだか?うん。返事をしながら、彼の元までゆこうと思ったのだが、如何せん腰が未だ痛かった。立とうとして、ぐらりと崩れる俺に、彼は慌てて駆け寄る。ああ、月、が、消えた。
ばっかお前、痛いんだろ、無理すんなよ。ぶっきらぼうな口調。だけれども、彼はこんなとき、とてもとても優しい。ゆるゆると髪を撫ぜられる。骨張って細い手や指が、するりと髪の毛の間を這う。ダメだよ。は?空が、暗くなっちゃう。なに、ゆってんだ?シズちゃんは、お月様みたいだから、だから。彼は俺の片言のような、拙い言葉の片鱗を集めて、ほんのちょこっとだけ、ニュアンス的な意味を理解したらしかった。あの、なあ。うん?俺の髪、そんな綺麗、か?うん、とってもとってもとっても、すごく、綺麗だ。そ、か。彼は悲しいような、嬉しいような、困ったような、とても不思議で複雑な表情をした。ふいに、すごく切なくなって、思わず、彼のその細っこい腰に抱き付いた。ぽすん。頭を預ければ、不思議な良い匂いがする。彼は、うをっ。とだけこえをあげて、後は静かに、俺の頭を撫で続けていた。
空では、月が煌々と輝いているのに。
(お月様は、ひとつで充分。でしょう?)