決意は揺れて 4
4.
黒子の口から告げられるのなら、いっそ知られてしまう前に逃げてしまえばいいのだ。
そう思っていたが、現実は上手くいかない。子供を生むのであれば、正社員で雇われている以上、やめるわけにはいかない。そうなると、勤務地を帰られないために身を隠すにも難しくなる。
どっか地方に転勤でも申請するか。
笠松の勤めている会社は、規模が大きく全国に複数の事業所を持っている。しかし、転勤を申請するにしても理由は必要となる。上手い言い訳など見つかるはずもない。
そして、いつもどおりに出勤し、自分のデスクでため息を漏らした。
残念ながら、よりも喜ぶべきか、黄瀬からの連絡はない。
元気ないねと心配そうに声をかけてくる同僚をごまかしながら、一日を過ごす。そんな日が数日続いた。
それは、黄瀬が撮影を終えて帰ると予告していた日まで一週間を切ったタイミングだった。
朝、出かけるタイミングで手にしたスマートフォンは着信のランプが着いており、夜の間に連絡が来ていたようだった。
誰だよ、んな非常識な時間に。
夕食の約束をしていた友人を思い浮かべるが、彼女は約束の時間直前に連絡をしてくるような人間だからこそ違うとわかる。眉間に皺を寄せながら確認する。書かれていた名前に、思わずスマートフォンを落とした。まさか、このタイミングでその名前を見るとは思わなかった。
自分自身に落ち着けと言い聞かせて、スマートフォンを拾う。「涼太」から届いていた電話の着信は深夜に十件以上。メールの着信はなく、伝言メッセージが二件だけ。
震えの収まらない手でスマートフォンを操作する。伝言メッセージを再生するときに、そのまま効いてしまっていいのか考えてしまい、一瞬だけ手が止まる。深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。画面をタップすると、甲高い電子音が聞こえた。
『センパイ、別れるってどういうことっスか!? なんでいきなりそんなこと言い出すんですか、意味わかんないス! 嫌です、俺、絶対に別れませんから。理由もなしに別れられる分けないじゃないですか。嫌いになった? ダメなとこあった? ねぇ、あんたのこと好きなんだよ。絶対に別れたくない。ねぇ、別れるなんて言わないでよ』
笠松の感想は、驚いたということだけだった。後半は縋るような声で、戸惑った。そんなこと言ったって、自分に会わずに他の女の子と会っていたじゃないか。子供なんかいるってなったら、芸能人としての評判が落ちるじゃないか。都合のいい女だろうと、重荷にはなりたくなかった。何も変わらない状況で、ずっと待っているはずが、どうしてこうなってしまったのだろう。
「迷惑を掛けたくないんだ」
届かないとわかっていながら、黄瀬に向けての言葉を口にする。
お願いだから。そう思いながら、二つ目のメッセージを聞く。
『さっきはすみませんでした。来週、木曜日には戻るのでゆっくり話しましょう。週刊誌で何か報道されたみたいですけど、あれ、嘘ですから。ただの打ち上げです。不安にさせてしまったならすみません。俺には、笠松センパイだけなんで、信じてください』
今度は急に大人しくなったように言う。いつもの黄瀬だと心のどこかで安心しながらも、笠松は別の焦燥感に駆り立てられる。
ちゃんと逃げなきゃ。
猶予は一週間しかない。引越しは土日に家を探すか、実家に戻るか。
いくつかめぼしい物件は探していたものの、すぐに契約して引越せる状況ではない。実家に戻ったところで、両親を紹介している状況から、実家に連絡を取ったり実家まで押しかけられる可能性だってある。
子供を堕ろして、また付き合いを続けるのが最良だったかもしれない。そう思うのに、笠松は生みたいと思ってしまったのだ。だから、傍にいられない。逃げなきゃいけない。
怪訝そうな表情を見せる友人。投げかけた言葉が悪かったのだが、それでも仕方ないだろと返す。
「というか、なんでそんなことになったわけ?」
黄瀬から逃げたいから匿ってくれと言っただけなのに、理由を聞かなきゃ出来ないと言う。面倒くさいから別れろと口癖のように言っていた人物とは同じとは思えない。
彼女は高校からの付き合いで、笠松と黄瀬のやり取りをずっと傍で見てきた人物で、何かあるたびにあんな駄犬とは別れてしまえと言い放っていた。
「ちゃんと話さないと匿ってあげないよ」
「……こないだ、週刊誌に女の子と撮られてた」
「どーせ、いつも通りでっち上げられたんだろ」
「弁明がなかった」
「今朝、来てたって言ってたの誰だっけ」
「連絡が遅い」
「一ヶ月、山奥で撮影だって言ってたね、あんたが」
「子供が出来た」
「………………は?」
あーあ、言っちまった。
驚く森山を放っておいてビールを煽る。ぬるくなって、あまりおいしくはない。次のを早く頼もうともう一度ジョッキを傾けると、全力で森山に取り上げられる。
「ちょっと待て、妊娠したの!?」
「そうだよ。いいからビール返せよ」
「妊婦がアルコールを摂取するな!」
勢いで仁王立ちをした森山に、笠松は眉を顰めた。
「大体、妊婦はアルコールもカフェインも胎児に悪影響だからダメだって常識でしょ! ちゃんと決着つけるまで禁止!!」
息を吐く間もなく言ったあと、ぬるくなったビールを一気に流し込んでジョッキを空にする森山。笠松は呆気に取られるしかなかった。
落ち着いて着席するとウーロン茶を頼み、仕切りなおしといわんばかりに笠松に向き合った。
「で、何で子供できたから逃げるわけ。普通、責任取らせて結婚するもんじゃないの?」
「普通って言うが、あいつは普通かよ」
「……駄犬だったね」
「違ぇ」
いつまで経っても駄犬という評価が上がらないんだろうか。なんてここ数年は諦めた疑問だった。
ため息をひとつ、小さく口を開く。
「あいつの負担になりたくねぇ」
笠松の相手は、一般とは程遠いところに身を置く男。それらを含めて覚悟したはずなのに、世間から見られる仕事をするのに、世間一般からは歓迎されないことの多い行為を強いるなど出来ない。彼の立場を危ぶませてしまうことが、急に怖くなったなどこの友人にさえ言えない。
「とりあえず、あいつ、すっげぇしつこいから実家には行くと思うし、しばらく匿って欲しい」
「きちんと別れないの? 言っても、あいつがすぐ頷くとは思わないけど」
ぼやく森山に、笠松は躊躇いながら頷く。
「一応、電話で別れるって言ったら駄々捏ねられた」
「……理由は言った?」
「言ってない。負担は掛けたくない」
店員が失礼しますと間に割入って、ウーロン茶を置いていった。笠松はそれを両手で握り締める。
「ずっと逃げるつもり?」
「そのうち、ちゃんと別れたい。……てか、別れる」
「そっか」
呆れるでもなく、怒るでもなく、ただ受け入れてくれる友人をありがたいと思いながら、ウーロン茶を眺める。
そういえば、黒子にハーブティーを勧められたことを思い出す。カフェインとアルコールが良くないということが一般的なら、彼女もまた、妊娠のことに気づいてカフェインを取るのを防いでくれたのだろうか。
こんなにも気遣ってくれている人がいるのに。