嗤う朱
いつも深海の如く蒼い瞳は、足元の血の海の色を写し朱く爛々と光っているようにさえ見えた。
夢の中でだけの闘い。夢の中の自分は今よりも随分と小さく、幼い。当時、自分の身の丈ほどもある斬魄刀をよくもあの小さな体で扱えたと自分で感心する。あの頃の、夢。
その当時。己は女というものをあまり知らなかった。流魂街では物取り、人斬りなどは大抵が男であったし、女の身で金を稼ぐ方法といえば娼婦のようなものであったり、母の顔もよく覚えていなかった。とにかく己―更木剣八は退屈な日々を人を斬って持て余してばかりであったので女とは無縁といっても良かった。
だから。
更木があった十一の数字を背に負った女と闘ったあの時が、実質初めて女と触れた機会であった。
――隊長に初恋とかあるんですか。
自隊の弓親がいきなり更木にそんな質問を投げかけたのはつい先ほどのような気もするし、それから随分経ってしまったような気さえする。いきなりではなかったであろう。その前にやちるが一角と弓親相手に女性死神協会で集まったときの話をして、初恋とはなんなのか、を弓親に聞き…とそこに至るまでの経緯はあったはずなのだが、更木は部下の世間話を聞かず、戦いたいだのとそういったことばかり考えているので、更木にとってはいきなりであった。
この何気ない問いかけに更木の思考はフリーズした。そうしてなぜか冒頭の何百年前かの過去へと想いを浸らせる原因となったわけである。更木に質問を投げかけても返ってくる方のことが少ないくらいなので、今回も返答が来なくとも気にせず弓親たちは話を進めていた。
正直に言って更木がまともに女と触れ合ったのは彼女―八千流が最後かもしれないと思った。ほかに小さいほうのやちるもいるのだがそもそも更木はやちるのことを女とは考えてすらいなかったので除外した。時折、欲が溜まって娼婦館のようなところへいき、女をかうことがあるが、それも更木としては欲を発散しているだけで、女の顔なぞ覚えていなかった。
そうなると。まともに触れ合った、対した女は八千流だけだった。
――初恋?俺があいつに抱いた感情が?馬鹿な…
そう思いつつも、確かに初恋にも似ているかもしれない。数百年間、彼女のことだけを想ってきた。すべては彼女と闘うために。より強いやつと戦闘を愉しむために。彼女の容姿だって、名前だって、その声だって。何もかも目に、頭に、その存在は鮮烈に焼き付いて更木から離れないのだ。
確かに、想いつづけているというのは初恋にも似ている気がした。そしてまだ片思いの最中だ。
夜更けになり、更木は四番隊の隊長の私室へと訪れていた。ノックも呼びかけさえもせずに中に入ると、紅い寝着に身を包んだ卯ノ花がいた。昔はおろしていた髪は更木の手によって付けられた胸の傷を隠すように前で三つ編みにされていた。更木としてはおろしていたほうがよいと思うのだが、隠された傷がまるで自分が彼女につけた所有印のような気さえして昂った。四番隊隊長となり昔とは180度変わってしまい、己と闘ってすらくれない彼女。
――だが、俺だけが知っている。
以前、闘えと迫り彼女の胸ぐらを掴んだとき三つ編みが揺れ、ほんの少し見えたその秘密。彼女の過去。それに爪でひっかいたような傷があることに。
――あぁ。
それを見て、安心した。恋焦がれていたのは自分だけじゃなかった。彼女もだったのだ。どうして自分と闘ってくれないのかはわからない。いつも斬魄刀を副隊長にあずけ、『私は闘いません』と無言の意思表示をするようになった。けれど、彼女もまたあの日の夢のような、一瞬のようなあの時間を。なにより自分を、覚えていてくれていることが何よりも更木を安心させた。
「おい」
久方ぶりに出した声は掠れていた。だが理由はそれだけではなかったはずだ。
「更木隊長。女の部屋にノックも何もせずいきなり入るとは、いただけませんよ」
卯ノ花は眉根をしかめた。更木は何も言わず卯ノ花を押し倒した。畳に押し付けられた背中の痛みを訴えるように卯ノ花は目線を上にあげた。しかし、その表情はいつものような母性あふれた優しげな表情ではなく、無表情であった。
「おい」と、喉を鳴らして嗤う。
「いつもの猫かぶりがはがれてんぞ。俺と殺りあってくれんのかよ」
「犯りあうの間違いではありませんか?少し見ない間に、随分と更木の子供が色気づいたものです」
彼女の方は、鼻で嗤いながら言葉を紡いだ。
「そう言って、いつも拒まないだろ」
卯ノ花は目を細めた。
「私にだって、欲求不満になることはありますよ」
勇音には内緒ですよ、と言って、朱い唇は嗤った。