海は燃えているか
「痛ってえ!何すんだよお、お前俺の脳細胞が死んだらどうすんの、今五億は死んだぞ」
「声が大きい。別に約束してなかったよね」
「あれ、もしかして帝人、寝てたの、こんな昼間っから。日曜の三時半だってのに、いっしょに出かけてくれる女の子の一人もいないなんて、可哀想だなあオイ!」
「そういう正臣だってこんな時間に一人でうちまで何しに来たのさ」
僕の睡眠の邪魔? と嫌味をこめて見下ろすと(上がり口のおかげで、珍しく帝人の目線が幾分上で、明るく染まった髪の根元の、黒く地の色がのぞけた)、正臣は頭を押さえて痛がる三文芝居をぴたりとやめ、一転、こぼれてしまいそうな笑顔を見せた。
「そうだそうだ、帝人のチョップのせいで忘れるとこだった」
海行こうぜ、と彼は言うのだった。
「海」
「海うみ。連れてってやるから、三十秒で支度しな」
「ラピュタ? ていうか、なんでこんな急に」
「なんでもどうしてもなーい!俺が行くっていうから行くの、ほらほら早く!」
子どものように喚く正臣の勢いに押されるように、帝人は腑に落ちないまま部屋に戻り、適当なTシャツにジャケットを一枚引っ掛けて、三十秒とは行かないけれど、五分後にはうちを出ていた。
駅のコンビニでペットボトルのお茶を買って、ごとごとと揺られる電車の座席のあたたかさに、ほんの三十分前までいた布団の中を思い出し、帝人の瞼は次第に下りてしまいそうになる。ぼやけていく車両の輪郭をはっきりさせたくて、瞬きを繰り返す。
「男二人で海って馬鹿らしくない」
「だからいいんじゃねーか」
海じゃなくても、山でも、なんなら今から戻ってディズニーランドでもいいぞー、と軽口を叩く正臣を、片手を振って黙らせる。
「どうせなら園原さんと行きたかった」
「俺だって杏里と行きたかったよ」
「じゃあ誘えばよかったのに」
「メールして誘ったけど断られた」
「……あっそ」
あっけらかんとした口調に、ずいぶんどうでもよくなって、ふいと顔を背けると、人さし指で頬を突かれた。
「やだ、怒った?怒んないで〜帝人く〜ん」
きしし、と笑いながらじゃれて、もたれかかってくるのを、跳ねのけなかったのは、日曜のこんな時間から海に行くなんて酔狂な客は、自分たち以外にまばらだったせいだ。
「ほんと気持ち悪い」
放った言葉にそれほど威力はなく、恥ずかしくなってやっぱり目をつぶった。
駅を下りて、砂浜にスニーカーを埋めると、もうすっかり夕方で、人気の少なく、燃えるようなオレンジの震えるような光に染め上げられていた。
海が燃えている。金色の波が散る中、エナメルを塗ったようにひときわ明るい茜色の夕日の沈むのを、二人眺めていた。海の中からにょきり、にょきりと突き出した岩の突起も、海猫の飛影も、火の玉のように明るい太陽のせいで、すべてくろぐろとした影絵になっていた。
「すごいね」
「綺麗だな」
帝人が感極まって言えば、正臣もそれに習った。当たり前のように綺麗だと言うのだった。十五歳男子の語彙に綺麗だとか、美しいとか、ストレートな賛美は収録されていない。それはどこか遠い国の言葉のように現実感がなく、ふわふわと軽く浮かんでいた。
だから、正臣の口からまっすぐ溢れた言葉に、帝人は照れたように目を細めて、わざと気のないように、正臣に聞いた。
「何で海だったの」
「んー、俺は別に、海じゃなくてもよかったよ」
くるりと振り向いた正臣は、ひどく真面目な声を出した。おどけたような仕草は、今はない。
「言ったろ? 海じゃなくても、山でも、ディズニーランドでもいいって」
海の表面をさざめかすような、不確かで、たよりなく放り出された、十五歳の形をした声だった。
「帝人連れて、どっか行きたかっただけ」
その声は、少し震えているような気がしたけれど、いくら目を凝らしても、正臣の表情は、太陽の光が照り返すせいで、まったく読めなかった。目じりのところに、光が溜まって、きらきらと光っていた。まるで小さな海のようだった。きっと舐めれば海のように、しょっぱい味がするのだろう。
「なあ。本当は、杏里のこと誘ってないって言ったら、お前どうする」
「何、それ……」
帝人は動くことができずにいた。
ちゃんと呆れ声に聞こえただろうか? 声のしまいは震えなかっただろうか?
太陽の最後のひとすじがジュウと音を立てて海の底に消えるまで、帝人は何度もかえろうか、を飲み込んで、黙ったまま砂浜に突っ立って、ただ燃える海と、水平線の途方もない円周と、友人の細い背なかを見つめていた。
一人で訪ねた海は、静かで、穏やかな、春の海そのものだった。夕刻の光があたり一面に溢れ、空は油絵の具で塗り重ねたような雲が、いくつも千切れて浮かんでいる。
海は燃えている。金色の波が散る中、エナメルを塗ったようにひときわ明るい茜色の夕日の沈むのを、一人眺めていた。海の中からにょきり、にょきりと突き出した岩の突起も、海猫の飛影も、火の玉のように明るい太陽のせいで、すべてくろぐろとした影絵になっていた。
この景色を、一枚絵を、帝人はかつて見たことがあった。
正臣、お前の中でも、海はまだ燃えているか。あの日の声の震えは、どこかで、まだお前の胸も震わせているだろうか。もしそうなら、きっと僕たちは、またいつかここに並んで立つことができるだろうか。
あの時、ここには、海より眩しい金色がいたのだ。そして、勝手気まま、いつも好きなことばかり、そんな彼がこの夕日を、自分と分け合いたいと思ったことを、綺麗だと言うのかもしれないと思った。