メロンパンの斜め上
「レーナ・アクア―――」
桜色の小さな唇からこぼれたのは彼女が得意な風の魔法ではなくて、ユリウスは少しだけ、あれ、と思った。けれど口には出さない。出すことで目の前の可愛い少女の集中を切らすのが嫌だった。
魔法を見せてと言ったのはユリウスだ。最近調子が悪いと零した彼女にそれなら実際に見せてくれと頼んだ。
魔法は編物のようだとユリウスは思っている。編み上げるものの素材の量が魔力、どれだけ多彩な編み方を蓄積しているかが知識、そして実際に編み上げる力が技術だ。だから彼女の魔法は意味がわからない。手袋を編んでいて指が一本多かった、ならまだ分かるし未熟な人間なら犯しがちな失敗だ。けれど彼女の魔法の失敗は違う。そういう次元じゃない。
例えるなら、本人はセーターを編んでいたつもりだったのに出来たのは等身大の麦藁帽子だったとか、黒い猫の編みぐるみを作っていたはずなのに編み終わってみたら真っ青な靴下(右用)が五つになっていたとか。突っ込みどころが多い上に筋がまるで通っていない。意味がわからない。完全なるメロンパンだ。
「お願い!」
しまった、とユリウスは内心で臍を噛む。肝心の律をほとんど聞き逃した。けれどそれでもルル、と思わず笑みがこぼれた。
律に懇願はあまりよくない。律の基本は命令だ。自然の中にある六元素を詠唱による律の宣言で制御して不思議を作る。そして自然は基本的に人に厳しい。来いと命令でねじ伏せて無理やり従わせることは出来ても、来てくれと請われて応える元素はほとんどない。ラギのように自身がすでに高位にあるような存在、あるいは丁寧に手順を踏んだ召喚を別にして、自然は懇願を無視するように出来ている。
けれど彼女の魔法は成立した。
ぱん、と耳元で小さな破裂音がした。魔法が成功した時に聞こえる音だ。けれど他の誰に聞いてもそんな音は知らないというからそれはユリウスだけの独特な感覚なのかも知れない。だからユリウスは魔法が成功した時、いつも思う。
ああ、弾けた。
彼女の不思議は美しく弾け、結果、空に七色を生んだ。
「で、きたっ! ユリウス、出来たわ!」
見たかと嬉しそうに笑う彼女をたまらず引き寄せる。何が、どうして、いつ、どうなって彼女の魔法が弾けたとかどうでもいい。
だってルルが笑う。嬉しそうに、少しだけ得意そうに笑う。見せてと頼んだユリウスのためだけに魔法を紡いで笑う。それでちゃんと出来て嬉しいと笑うからもう他の事なんてどうでもいい。最近調子が悪いなんてとんでもない、だって彼女の魔法は弾けたのだ。
「うん」
胸に湧き上がる感情をどうしていいか分からず、ルルを胸に抱えたまま頷いたユリウスに彼女は笑う。照れくさそうに、嬉しそうに、そしてやはり誇らしげに。
「ありがとう、ユリウスのおかげで自信が持てそう」
「俺は君に見惚れてただけだよ」
何も考えずに正直なところを言うとルルの頬が赤く染まった。ユリウスはそれをただ綺麗だなと思う。
「可愛い。頬が赤いルルを見るのすごく好き」
「あ、ありがとう、そう言われるの、私も嬉しいわ。でもね、ちょっと離してくれないかな?」
「どうして?」
意味がわからない。だってユリウスはルルを抱え込んでいることがとても幸せなのだ。暖かくて、柔らかくて、いい匂いがして、小さな手がもぞもぞ動く仕草がくすぐったい。胸の奥がうずうずする。
「ねえ、ずっとこうしていられたらすごく幸せなことじゃない?」
「そ、そんなの、恥ずかしくっておかしくなっちゃう……!」
ルルの焦ったような言葉を吟味して、ユリウスはしぶしぶ手を離す。
「君を困らせるのはすごく嫌だ……」
「あの、」
離したはいいが距離を取るのは嫌で近い距離にいるままのユリウスに何を思ったのかルルが少しだけ口篭もる。
こういう時急かしてはいけないことはユリウスももう十分理解していて、だからただ待った。
ただ待つことはとても焦れる事だけれど、そうやって我慢した分、お釣りが出るほどの嬉しい気持ちをこういう時のルルがくれることをユリウスはもう知っていた。
「嫌なわ、わけじゃないの。ユリウスに、その、ぎゅぅって、されるのすごく好きよ? こま、ってるって思われるのは、その」
「つまり、君は困ってない?」
「うん!」
強く頷いたルルに安心して改めて抱き寄せる。腕の中の存在に安心して、それからユリウスは考える。
彼女は最近不調だという。魔法が上手に紡げない最たる原因は恐らく焦りだろう。焦りが律のなかに懇願を生み出して、それに応えるものといないものとが当たり前だが居て、バランスが崩れる。故に魔法が弾けない。
「君はもっと自信を持つべきかも知れない」
実際のところ、彼女は非常に優秀だ。魔力も知識も技術も一流だ。学ぶことを怠らないのはルルと仲良くなって日が浅い時点でもう知っていた。
まあそれはともかく。今は彼女が腕の中にいることだし。今日は休みでここには人気もなくて、彼女もユリウスが抱き寄せることが嫌でなくて。
そしたら。
あとはもう。
ねえ?
「可愛いなあルル俺もうほんとに日がたつごとに君を好きになるよどうしてかな触れて優しくしたい気持ちとすごく泣かせたい気持ちとそんなのどうでもいいからとにかく腕の中から出したくない気持ちとでぐっちゃぐちゃだよ他の奴に見せ付けたいけどもったいない気もするしでも君がそんな顔をするのは俺がぎゅってしてる時だけだと思うし」
「ユ、ユリウス。ストーップ!」
ルルの言葉がユリウスの耳に入ったかどうかを探るのは恐らく野暮というものである。
少なくともこの学園に馬はいなかった。