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犬の名前

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 あまり人を覚えるのが得意じゃない。
 たとえば、誰とは言わないがとびきり嫌なやつの場合、近くにいるだけでビリッとくる存在感というか臭いがするから、覚える必要すらない。
 言動の変な奴は向こうから寄ってくるから、やっぱり覚える必要はあまりない。
 人じゃない女は見ただけで人じゃないから見分けがつく。
 そんな訳で人を覚えるのは得意ではないのだ。
「もう起きるのか?」
「もうって、夕方っすよトムさん。さすがに腹減った……」
「運動したしな」
 この下品な物言いをする、ベッドで隣にいる人――トムさんのことも、実はあまりよく覚えてない。なかった。こんな風に平日の昼間から仕事がないことをいいことに同じベッドで過ごすようになるまでは。――誤解のないように言っておくが、やることはちゃんとやっている。
「でもなんで静雄はネコなんだ?」
「なんでって……アナル犯られたいんスか、トムさん」
「いんや。でも男はふつうタチのほうがいいだろ」
「普通じゃないからネコなんじゃないですか」
 そんな話をしながらベッドに半身を起こして伸びをすると、腹がぎゅう、と鳴る。やれやれ、空腹ここに極まれりだ。
「俺が抱いたら全部壊しちまうに決まってるでしょ」
 一目見て顔を覚えた相手なんて初恋のパン屋さんのお姉さんぐらいだが、結局壊してしまった。
 あれ以来自分から誰かを抱きたいなんて思ったことはない。ま、抱いてくれと言われれば断らない程度には普通の青年だし、割り切っていればお相手もする。 
 でもやっぱり、そんな女達の顔も名前も、覚えるはずもないわけで。
 トムさんも放っておけばそのまま、やっぱりあまり顔を覚えていない先輩、で終わっていたかもしれない。
 それが変わったのは、最初の夜、トムさんがサングラスをはずした時だ。
 丸くて黒い目が、昔飼いたいと思っていた大型犬にそっくりだった。少し濡れた感じとかが特に。ちなみに犬の犬種は………なんていったかな。
「飯、俺の分も買ってきて」
「ちょ、人をパシリにする気ですか」
「いーじゃん、コンビニなんてすぐそこだろ」
 たしかに二人で手をつないでお弁当を買いに行く、なんていう状況じゃないのは確かだが。
 ムッとはするが、不思議とこの人相手だとイラッとすることがない。以前、静雄がキレるラインなんて全部見極めてると豪語してみせたが、あながち間違いじゃないのかもしれない。
 飼い主の期限を伺うのがとびきり上手で、おいしいときだけしっぽを振って寄ってくる犬みたいだ。いつも笑ったような顔をしたでかい犬。
 どっちが飼い主でどっちが飼い犬なのか、表面と中身が逆転しているところとかも、自分たちらしくてしっくりくる。
 それがなんだか悔しくて、自分からも聞いてみる。
「トムさんは怖くないんスか。俺は平和島静雄ですよ?」
 池袋の破壊紳とまで言われた男、それが俺。なのにトムさんときたら。
「俺は俺を信じてるから。あとついでにお前のことも」
 なんて言ってのける。
「やっぱかなう気しねーわ」
「それはなにより」
 にかっと笑うと、憎めない顔。ますます犬じみて見えるのは何故だろう。
「コンビニの弁当でいいんスね?ビールは?」
「おう、頼む」
 トムさんが身を乗り出してきて顔が近づくと、目と目があう。
 そうだよ、やっぱり犬の目だ、ほらテレビドラマなんかに出てくるみたいな。ええと。
 犬の名前は……やっぱり忘れた。

作品名:犬の名前 作家名:y_kamei