With you.
「ねえねえ、響也、見てみて」
彼女は、先を数歩進んでしまった響也を手招く。
なんだよ、と彼は彼で面倒臭そうに、かなでのところまで戻ってきた。
冬休み特別講義参加者募集、と書かれている。校内の印刷機で簡単に刷られたポスターだ。
「はあ? お前まさか、これに参加するとかってんじゃないだろうな?」
開催日には、冬休みに入ってから数日後が指定されている。休みなんだから、わざわざ学校まで出てきて、わざわざ勉強なんぞしたくない。
「えー、だってこれ、すごくない? プロの人が来てくれるんだって」
これはぜひとも受講したい、とかなでは主張するが、響也は乗り気になれないようだ。
「個別の指導も可能ってあるし」
あまり大きくない文字で書かれている。
「目立たせてないとこみると、あんまり時間取れないってとこだろうな」
ポスターには、講義というより、講演会、という方が正しいような文言が見て取れる。だから、講演がメインで、個別指導は後回し、時間があったらやりますよ、という程度だろう。
「でも、プロのお話聞いてみたくない?」
「興味ない」
まだ将来、何をするかも決めかねているし。
「えー絶対楽しいと思うんだけどなあ」
かなでは、勝手に期待している。
「つーか、プロって言ったって、ピンからキリまでだろ? 誰だよ、これ?」
「星奏の卒業生だって。前に律くんが会ったことあるって言ってたよ。知らない?」
「知らねえって」
同じ学院の卒業生だなんだと言ったって、知らないものは知らない。
顔写真と経歴が載っている。顔は見たこともない。たぶん。しかし確かにプロと言えばプロのようだ。
「金澤、か」
やっぱり、覚えのない名前だ。
どうでも良さそうな響也の反応の数々に、かなでもいよいよ、ふくれっ面になってきた。
それに気づいて、いや、と思わず口をついて出た。
「いや、ほら、まああれだよ。冬休みなんだぜ? 寮でゆっくりするとか、実家帰るとか、あるだろ?」
「だけど、せっかくなのにー」
「そんな出たいのかよ?」
「出たいよ」
「じゃあ、出ればいいだろ」
そうだ、そもそも響也まで付き合う必要はない。
「響也も参加するんだよ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたが、それは予想通りの発言でもあった。
「俺は行かないって」
「一緒に行こうよ。勉強になるよ。律くんだって、行って来いって言うと思うし」
「律は関係ねーし」
すぐに兄の名を出すのは、かなでの小さい頃からの癖みたいなものだとは分かっていても、あまり面白くない。
しかし、そんな響也の心の内などお構いなしに、背の低い彼女は、ちょっと首を傾げるように見上げてきた。
「ね、行こうよ」
そうお願いされると、どうあっても断れない。というのは、惚れた弱みというより、子どもの頃から見てきた彼女が、この後、とてつもなく不機嫌になって、しばらく口を利かなくなったり、弁当のおかずが寂しくなることが分かっているからだ。
「あー、ったく。分かったよ。付き合えばいいんだろ」
諦めて言えば、
「ありがと! 響也、大好き!」
なんて、ほら、笑って無邪気に言うのだから、しかも狙っているのでもないのだから、どうしようもない。
そんな笑顔と言葉に、ころっとほだされて、悔しいながらも、喜んで跳ねる自分の鼓動の方が、もっとどうしようもないと分かっている。
はー、と盛大な溜息をつきながら、もう一度、ポスターを見た。
日本でも海外でも活躍の場を広げる、女性ヴァイオリニスト、だそうだ。
「金澤香穂子、ね」
ふうん、とつまらなそうに漏らしながら、確認する。
かなでは楽しみだと言いながら、響也を見上げた。
***
「あーん、やっぱり引き受けなければ良かったかも!」
香穂子は思わず声を上げる。
それを、金澤がやや呆れた顔で見やった。
「母校からの頼みだろ。今さら断るなんて、可哀想なことしてやるなよ」
かつて通った星奏学院から、生徒のために、冬休みの特別講義として、講演をしてほしいと頼まれて、断りきれなくて承諾した。
けれど、今さら、その日が近づいてくるにつれ、緊張してきた。いっそ、断ってしまいたい、と思ってしまう。
もちろん、後輩にあたる生徒に、プロになることについて、色々話したい気持ちもあるけれど、何しろ講演のことを思うと、心臓がばくばくしてどうしようもないのだ。
そんな彼女の様子を、今度は、苦笑しながら見ている同居人――というか、夫が目について、思わずむっつり、不機嫌顔を向けていた。
「そう言う顔しなさんなって」
「だって! 慣れてないんだもの、緊張するんだもの! なのにそんな顔で笑わないで下さい」
と言っても、相手をますます笑わせるばかりだ。
「同じステージでも、ヴァイオリンは堂々と弾くようになったのになあ」
不思議なもんだ、と彼は言う。
もう、確かに慣れたことだ。それに、ヴァイオリンを弾いていると、すっかりその曲の世界に入り込んで、意識が外に向かわなくなる。客席を無視しているわけじゃない、でも気にし過ぎないで、音楽のことを考えるばかりになれるのだ。
緊張する。でも、引き受けたから、頑張らねばなるまい。
「ねえねえ、紘人さん」
「んー?」
彼はもう新聞を探し始めている。それを見つける前に、とっ捕まえよう。
「緊張するから、ちょっとキスしてくれません?」
「却下。大体、本番は今じゃないだろ」
「その練習?」
「キスの練習なんぞ、する必要なし」
もー、と思わず香穂子は牛のように抗議の声を上げるのだけれど、いよいよ新聞を手に取り、広げ始めた。
仕方ない。
がば、とソファの背後から、夫の首に抱きついた。苦しい、と文句を言われても、無視してやる。
その頬に、勝手に口づけして、にやりと笑えば、ただ呆れた苦笑の横顔が振り返った。
それから、二人で声を立てて笑った。
――fine.