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四月のプライベート・プール

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アパートの狭い玄関に大きな紙袋を放り出した凛はこれみよがしに息を吐いた。
「何でこんな立地の不便な部屋選んだんだよッ」
 そのまま荷物と荷物の間にどっかりと腰を下ろす。体は鍛えているから言うほど疲労しているわけではないが、気持ちの問題だ。
 新居を案内すると言われて、駅で落ち合って、ついでに買い物をするというので付き合ったまではいい。荷物持ちを頼まれたのも構わない。問題は新居であるアパートの目の前の急坂だ。アパートがひしめく平坦な住宅街だってあっただろうに、よりによって何故。買い物をするにも大学に通うにも、この坂を登らなければならない。こんなのは聞いていない。
 遙は自分で持ってきたビニール袋の中身を狭い台所に並べながら振り向きもせずに答えた。
「別に、不便じゃない」
 海辺の町に生まれて十八年、転げ落ちるような石段を行き来し続けた男は平然としている。
 アパートの正面は自転車を降りたくなるような傾斜の八分目で、道路から外れて、ほとんどアパートのためだけに設けられた平坦な横道に入りホッとしてL字型の建物を見上げると、これまた急な階段が伸びている。遙の部屋は二階だった。
「広さの割りには家賃が安い」
「立地と古さで適正価格だ」
「立地が悪い悪いって言うけどな、見ろ。この鯖」
 坂の下の商店街で買ってきたばかりの鯖を得意気に掲げてみせる。
「鮮度、値段、申し分ない」
「ああそうかよ」
 買い物途中で「朝食を食べていないから腹が減った」と言ったらこれだ。近くの飯屋でも入るのかと思っていたら、商店街の魚屋や八百屋に突っ込んでいった。そして一週間分もあろうかというほど買い込んできた。高校の三年間も自炊を続けてきた男には商店街がすぐそこというのは確かに好立地なのかもしれない。坂を挟んではいるが。
「今昼飯の準備するから、それつけといてくれ」
 それ、と言われた袋を渋々拾って靴を脱ぐ。玄関入ってすぐのスペースは五畳ほどの台所になっていて、奥の引き戸を開けたところに一部屋ある。もともと和室だったところを洋間にリフォームした際に張り替えられた真新しい白い壁紙は外観とギャップを感じるほどにキレイだ。まだ午前だからいい具合に光が差し込んで明るく広く見せている。
 その部屋の奥の窓はアパートの裏手に面している。安価な家具チェーン店のロゴが入った紙袋から青いカーテンを引っ張りだして窓に張りつくと薄ピンクに染まった桜の木が目に飛び込んできた。少し手を出せば触れそうなほど近くまで枝が迫っている。
「へぇ」
 季節は春だ。坂の下の商店街でも、近隣の学校の敷地でも満開の桜が街に灯るあかりのように咲き誇っている。
 桜は好きだ。全国共通で学校には桜の木が付き物だけれど、凛と遙が通っていた小学校にもあった。凛が遙と同じ学校に転校してきたのは小六の冬だったから、それが咲くところを一緒に見ることは叶わなかったけれど、卒業制作で桜の足元に作った花壇のレンガには二人のメッセージが並んでいる。
『Free』『For The Team』
 完成した花壇を見下ろす開花前の桜に見送られて留学したオーストラリアでは桜の記憶がない。実際日本ほどにはなかっただろうし、花を楽しむ余裕もなかった。久しぶりに見た桜は四年ぶりの春、苦しい留学を終えたばかりで、遙や周囲の誰ともわだかまりのある頃で。
 もうとっくに友人関係は回復しているし、帰国した翌春にはみんなで母校の桜を見に行った。だけど、毎年桜の季節になると色んなことを思い出す。
「凛、カーテン」
 感傷を遮って働くよう促された。古い換気扇が回り始める音。遙が真新しいガステーブルで鯖を焼き始めた。
「わかってるよ、うるせぇな」
 一つっきりの大きな窓のカーテンレールに一つ一つフックをひっかけていく。途中で一箇所かけ損ねた。根が真面目なので、ちゃんとやり直す。
「ったく、今度真琴が来た時にでも買ってくりゃ良かったのに」
「来週になる。それまで朝が明るくてゆっくり眠れないだろ。日当たりがいいんだ」
「だったらもっと遮光性の高いやつの方が良かったんじゃねえの?コレ、結構光が透けるだろ」
 半分かけ終えたカーテンを窓の中央まで引くと白い部屋の半分が青い影に染まった。
「別に、実家の部屋もそんなもんだった」
 香ばしい鯖と味噌汁のにおいが部屋に漂ってくる。ペースアップしてもう半分のカーテンを掛け終え、何度か開閉してレールの調子を確かめると、青い布の間から手を伸ばして窓を開けた。日当たりもいいが風通しもいい。確かに悪くはない。
 網戸を引こうとする間に一度強い風が吹き込んだ。長めの赤っぽい髪とカーテンが大きく揺れて、反射的に目を瞑った。部屋を振り返って飛ばされたものはないか確かめる。元からあまり散らかっていない部屋だから、ベッドと床に桜の花びらが落ちただけだった。風が落ち着くと、カーテンの隙間が消えて部屋中が青くなった。カーテンがゆるく揺れるたびにゆらゆら揺らめく青い光が部屋を満たす。それが、なんだか――――
「プールの中みたいだな」
 部屋の真ん中に置かれたローテーブルに漬物の器を置いた遙が花びらを一枚一枚拾い集める。水を掬うような、器の形にした片手に乗せ、そっと目の前に差し出した。
 揺れたカーテンの隙間から差し込んだ光の筋がゆっくりと手の上の花びらを撫でて、また青い影に沈む。
「桜のプールで泳ぎたい、って言ってたろ」
 まだ親しくもなかった、凛が遙と同じクラスに転校してすぐの頃のことだ。当時の遙は全く友好的ではなかったし、覚えているだなんて思っていなかった。遙の手の中に出来た小さな桜のプールを覗きこむ。鼻の奥で塩素のにおいがした。鯖も味噌汁もどこかへ行って、遙と二人で桜の浮かぶ春のプールの底へ潜り込んだ。花びらが縁に打ち寄せる溢れそうなプール。
 ゆっくりと顔を上げた凛の目にも白い花びらが浮かんでいるみたいに光の粒がキラキラしていて、頬を緩める。
「案外いい部屋だろ?」
 ついに溢れた涙が頬を滑り落ちた。かれこれ何度目かになる、「泣くな」と言う遙はちっとも嫌そうな顔じゃなかった。
 それから凛は何度だって坂を登る。