サマーブルース
溶けたソフトクリームが指をつたって、地面におちた。白い絵の具がぽとりと落ちたみたいな、それはじんわりと液体となって沁みこんでいく。蟻がいっぴきそこを横切る。あなたたちがすきなごはんが、そこにあるよ。
喧騒が遠い。わたしはまたいけない癖を発揮して、今ここにいる世界を、外側にもっていく。額縁の中にはめこんで、美術館のお客さんのように、それをじっくり眺めるのだ。目の前を通り過ぎる人並みはモノクロカラーで流れていく。わたしはまた遠い世界にひとりでいる。
近所の夏祭りに誘われたのは、まだ夏休みがはじまる前、定期考査の最終日だった。まだ日差しがやわらかいころからはじまった、屋上でのランチは、太陽が暴れている今まで続いていた。それがいいのか、わるいのか、わたしには判断できないけれど、しかし心の奥のほうが、じんわりあたたかくなるのが、わかるので、甘えたいなあともおもうのだ。
蝉の地面から這い出て、羽化をはじめたらしい。じわじわと鳴いている。夏がはじまる。
「夏祭り?」
たまごやきを箸にはさんだまま、竜ヶ峰くんのほうを見れば、彼はいっかい大きく頷いた。たぶん、熱さではなく羞恥で顔があついんだろうなあとおもう。こっちまでなんだか、あつくなって、困った。
「め、迷惑じゃなかったらでいいんだけど!!」
「迷惑なんかじゃ・・・!」
迷惑なんかじゃ。むしろいま、わたし、喜んでいる。彼がわたしにそれなり(なのか多くなのかはわからない)の好意をもっていることは、なんとなく気付いていたし、実際デートにも何度か誘われていた。それは大抵予定があわなくて実現しなかったのだけど。
「迷惑なんかじゃないです・・・けど・・・あの・・・」
たまごやきをお弁当箱に戻す。竜ヶ峰くんはじっとこちらを、なんらかの熱意をもった目で見つめてくるのでなんだかどきどきする。うまく顔がみれない。
「けど、なに?」
「ふたりで、ですか?」
ちらりと彼のほうに視線をむけてきけば、竜ヶ峰くんの顔はりんごのように赤くなっていた。
「ふ、ふたりで、いいの?」
すこし迷ったけれど、わたしの首はたてにうごいていた。
ここに紀田くんがいなくてちょっとよかったのかもしれない、なんてひどいことを考えてしまった自分が恥ずかしくなって、かき消すようにたまごやきを口にいれた。
(あとから聞いたはなしだけど、竜ヶ峰くんはきちんとわたしを夏祭りに誘うことを紀田くんに話していたらしい。おとこのこって、なんてフェアなんだろう)
男の子とはじめていくお祭りは、すべてがきらきらしていた。屋台のひかりも、それに照らされる林檎飴も、金魚すくいで跳ねる水しぶきも、すべてが色をもって輝いていたのでわたしはびっくりする。そういえばお祭りはずいぶん久しぶりだ。去年は高校受験対策の模試とかぶっていたし、そうして一昨年は、いまはそばにいない、張間美香と一緒にいった。だけどそのときよりも、もっともっと、
きれいだし、わたしはお祭りを構成しているひとつひとつから目が離せなくなる。
小さな神社での、町内規模のおまつりではあるけど、それでも人は大勢いて、わたしはその中をゆっくり縫うように歩く。すこしがんばって着た浴衣は歩きにくいけれど、それでも。
そうしてあんまりにも呆然としていたんだろうか。気がつけば前を歩いていた竜ヶ峰くんのすがたがなくって、とたんに慌てる。ソフトクリームを買ったときまでは、そばにいたのに!
携帯は電波がわるくてつかまらない、しかたないので、神社のおさい銭箱の前にある石段に座ることにした。下手に動くよりはいいだろう。ここのおさい銭箱にお金をいれるひとはほんとうに少なくて、わたしはすこし神さまに同情する。お財布から100円をとりだして、いれておいた。すこしだけ、ここにいさせてください。
竜ヶ峰くんがいなくなるととたんに、色を失う世界にわたしは愕然とした。彼といると自分はつい、この世界に身を置いてしまう。額縁をとっぱらって、同化をもとめる。いつのまに、そんなふうになっちゃったんだろう。ソフトクリームはどんどん溶ける。浴衣にもいくつか落ちていく。赤い浴衣に白い斑点ができる。ああ、これクリーニングださないとなあ。
(愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛 )
うるさい。
うるさい。
うるさい。
きょうはなんだか、とってもクリアに聞こえてくる。
なんだか罪歌に笑われているみたいだ。
わたしはたぶん、いま自分が最も望んではいけないことを望んでいるんだろう。額縁をこわしてくれるひと、わたしをすくいあげてくれるひと、世界に色をつけてくれるひとを、求めている。
(愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛)
それが彼を、こわしてしまうかもしれないのに?
「園原さん!!」
はっと顔をあげれば、ずっと探してくれていたんだろうか、汗をたくさんかいた竜ヶ峰くんが肩で息をしながら、目の前に立っていた。
「ごめ、ごめんね!おれ、緊張しちゃって、ついどんどん歩いちゃって、あ、どしたのソフトクリームこぼしちゃった?えと、ハンカチどこやったかな!」
彼はあわててポケットを探って、すこしくしゃっとなっているハンカチをとりだした。そうしてそれをわたしの膝の部分にあててぽんぽんしてくれる。こうすると下手に擦るより汚れが落ちるってきいたんだよねって照れくさそうに笑いながら。わたしはなんだかうれしいやら申し訳ないやらで胸のあたりがあつくなって、どうしようもない。こんなにやさしいひとを、わたしは傷つけたくなんかないなあ。胸のなかにわだかまっていたものは、涙となって目からでていく。あたらしい斑点が浴衣につく。竜ヶ峰くんがあわてるのが、わかった。
「ご、ごごごめんね!心細かったよね!ほんとにごめんね!」
違うの。違うんだよ竜ヶ峰くん。あなたがこんなにも、やさしいからだよ。そうしてわたしがあなたと同じ世界を覗きたいと、望んでしまったから。
ハンカチはすでにソフトクリームを拭いたからだろうか。竜ヶ峰くんが、指で涙をすくってくれる。
罪歌の声がちいさくなる。
「ごめ、なさ、だいじょうぶ」
一度ごしごしと浴衣のすそで涙をぬぐう。少しひりひりして痛かった。竜ヶ峰くんに笑いかける。大丈夫だから。竜ヶ峰くんは、すこし躊躇したあと、そっと手を差し出してきた。
「こんどはもう、はぐれないから」
わたしはそれをそっととる。握るとすこし汗ばんでいた。世界に色が戻る。わたしはせめてこの夜だけは、かれの手を握っていたいと願う。かみさま、100円なんてお金で申し訳ないのですけど、もう多くは望まないので、せめて今だけは、ここにいさせてください。どうかどうか。いまだけは。