紅茶、金糸
戸棚から紅茶を取り出す。彼の国で唯一美味しく口に入れられるもの。不味くても良いから、バターを塗ったスコーンが食べたい、考えながらポットに水を入れ、流れる水音、カップ一杯分で蛇口を止めて、コンロにかける。
あの夜、時差など気にせず日付の変わり目、酒臭い息を吐きながら、彼は唐突にやってきた。玄関で、抱きとめた重たい身体、耳元で囁かれる、愛している、と言う不毛。鮮明に覚えている。あの夜を、香港は忘れたことは無い。洋酒の、慣れない匂いに混じって、甘い言葉が肌に染みる。繰り返される自らの名前に、骨まで震えて、あの時自分は泣いたのだった。乱れてはいるが、その普段着が目新しくて、心臓が速く、痛い。彼は、そんな香港の気持ちなど知らず、もしくは知っていて、唇で、唇に、キスをしたのだ、アルコール、不快かと思えば意外にもそれは欲情に変わり、息継ぎの合間、「お前じゃなきゃ駄目なんだ」、抱きしめられる腕の強さ、昔優しく頭を撫でた大きな手の平が、恋人みたく意味を含んで、今は自分の髪をすいている。彼を愛する人が多いように、彼が愛する人が多いことも知っていた。お前じゃなきゃ、そんな台詞を、彼はどれだけの人に言ってきただろう? そして何人が、それを嘘だと知りながら、本当なのだと、自分を騙しているのだろう? あの日、あの夜、ソファで香港を英国は抱いて、そして翌朝何も特別を残さず帰って行った。
沸騰したお湯をカップとポットに注ぐ、英国式の淹れ方はもう身についている。缶を開けると、ふわり紅茶が香る。ポットの湯を捨て、茶葉をすくう、その指先で金色が光る。それだけで良い、それだけで良いのだ。涙は甘い紅茶に溶かした。あの日の嘘を、今も、確かに、信じている。