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紅茶、金糸

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 掃除していたソファの隙間、一本出てきた金色の糸。昼間の太陽は高い。長くは無い、それを薬指に巻き付け、そして結ぶ。左手。光に透かすと、きらきら眩しい、あの人の、髪。もう何年も会っていない、彼の訪問の機会など無く、自分が訪ねる理由も無く。どうしたって届かない、海に阻まれた西の国。遠く日の沈む方にある島国を、愛する人は沢山いて、もしその一人に混じったとして、不特定多数に埋もれてしまう、自分など小さな存在に過ぎなかった。過ぎないと、思っていたかった。
 戸棚から紅茶を取り出す。彼の国で唯一美味しく口に入れられるもの。不味くても良いから、バターを塗ったスコーンが食べたい、考えながらポットに水を入れ、流れる水音、カップ一杯分で蛇口を止めて、コンロにかける。
 あの夜、時差など気にせず日付の変わり目、酒臭い息を吐きながら、彼は唐突にやってきた。玄関で、抱きとめた重たい身体、耳元で囁かれる、愛している、と言う不毛。鮮明に覚えている。あの夜を、香港は忘れたことは無い。洋酒の、慣れない匂いに混じって、甘い言葉が肌に染みる。繰り返される自らの名前に、骨まで震えて、あの時自分は泣いたのだった。乱れてはいるが、その普段着が目新しくて、心臓が速く、痛い。彼は、そんな香港の気持ちなど知らず、もしくは知っていて、唇で、唇に、キスをしたのだ、アルコール、不快かと思えば意外にもそれは欲情に変わり、息継ぎの合間、「お前じゃなきゃ駄目なんだ」、抱きしめられる腕の強さ、昔優しく頭を撫でた大きな手の平が、恋人みたく意味を含んで、今は自分の髪をすいている。彼を愛する人が多いように、彼が愛する人が多いことも知っていた。お前じゃなきゃ、そんな台詞を、彼はどれだけの人に言ってきただろう? そして何人が、それを嘘だと知りながら、本当なのだと、自分を騙しているのだろう? あの日、あの夜、ソファで香港を英国は抱いて、そして翌朝何も特別を残さず帰って行った。
 沸騰したお湯をカップとポットに注ぐ、英国式の淹れ方はもう身についている。缶を開けると、ふわり紅茶が香る。ポットの湯を捨て、茶葉をすくう、その指先で金色が光る。それだけで良い、それだけで良いのだ。涙は甘い紅茶に溶かした。あの日の嘘を、今も、確かに、信じている。
作品名:紅茶、金糸 作家名:m/枕木