背中
猫がじゃれ合うような、そんな喧嘩をしていた時も、殺す気で対峙したこともあったけれど、どちらかというとそれは特別、ほとんどは背中合わせ―向き合うこともなく、重なることすらもなかった。
それはあの時も、親しい人から別れて凍った大地にいた時も同じだった。
そこはとても寒くて、凍えるように心寂しかった。きっとオーストリアさんやイタちゃんがいなかったからだろう。それはあいつも同じだったらしい。
私の部屋を訪ねてきたと思ったら、何も言わずに私を見下ろして、困ったように眉をひそめる。いつもだったら喧嘩を売ってくるくせに、まるで迷い子のように心許ない。珍しいと思ったけれど、私も何も言わずに―ただ身体を退かして通路を開けた。入れば、という言葉すら、気持ちが邪魔して口を出なかったのだ。
それはあいつにも判ったのだろう。はっとしたように緋色の目を大きくさせると、躊躇いながらも中へ入る。私はそれを見届けてからベッドに座って、隣をぽんぽん叩いた。座れば?の意志表示のつもりだったのだ。
しかしあいつは隣ではなく、背中合わせに座った。
最初は不自然に思った。けれどこちらの方が不自然で、背中合わせは私達にとって至極自然なのだ。背中から伝わる体温が、身体に沁み入るように熱くて、張りつめていた糸がぷちんと切れた―そんな気がしたのだ。
まるで日常に戻れたかのような錯覚を抱いて、だからかもしれない。つい気が緩んで、ぽろぽろと涙が出た。背中合わせだから見られることもない。その緩みからか、まるで子供みたいに泣いてしまった。
勿論あいつは何も言わない。それどころか、あいつの身体も微かに震えていたから、私と同じように泣いていたのかもしれない。私しか知らないけれども割と泣き虫のあいつのことだから、きっとそうだ。そう思うと少しおかしくて、私はその時、ここへきて初めて笑ったのだ。
隣にいないくせに背中にはいる。その距離感はひどく心地の良いものだった。
それ以来、ときどきあいつは部屋を訪ねてくるようになった。
部屋に入って、二人で毛布にくるまって、背中合わせに座って―それだけ。会話すらもしない。
あいつも私も器用じゃないから、会話すればきっとぼろぼろと強がりが零れ落ちて、もっと寂しくなってしまうのが判っていたからかもしれない。
思い出話も、慰めも、叱咤も、そんなのは何もかもいらなくて、背中に伝わる体温だけで十分だった。
そういうこともあるのだ。
ここから出ていくと決めた時だって、あいつとの間に会話はなかった。
きっとロシアから聞いていただろうとは思うけれど、いつものように来ていつものように背中合わせに座って―まるで何事もなかったかのように、いつも通りに徹した。
驚きはしたけれど―でもあいつらしいとも思う。いつだって大事なところで大事なことを言わない。昔からそうだ。
勿論―私も人のことを言えないけれど。
そんなあいつだから、最後の夜も、会話すらなく、ただ背中合わせに座って夜を過ごした。
そんな日に限って静かな夜で、辺りの音がよく耳を突くのだ。時折泣いているような音が聞こえて―それは私のかもしれないし、あいつのだったかもしれない。確かめる勇気すら私達二人にはない。
いつだって先に進むのが怖いのだ、二人とも。
それでも私は選んだ。ここへ残るか、それとも前に進むか。
朝方になって、あいつが珍しく振り返って私を見た。潤んだ緋色の瞳は昔良く見たそれで、懐かしくも口の中が苦い。ごめんね、と私が口にすると、あいつは顔を近づけて―まるで犬にするようなキスをする。
それでも、会話はない。私も何も言わなかった。
伝える言葉なんて見つからなかったのだから。
あいつが出て行って、淋しくなった背中に冷気が優しく撫でる。その冷たさに驚いて、後ろを振り返ってみたけれど、当然のこと。あいつはもういない。
ああ、そうか。一人で出ていかなきゃならないのか。
今更だが、すっかりそれを失念していたのだ。私は一人で出ていかなくちゃならなくて、一人であの懐かしい人達を対面するのだ。
たったそれだけ。
それだけなのに鼻の奥がつんとして、まるで曇ったかのように視界が歪む。世界が全て歪んでしまったような感覚は、ここへ来た時に抱いたが、しかし何故だろう?今はあの時よりもずっと心淋しくて、一人で歩む苦しさが囁く。
しゃくりあげながら、私はたった一言の言葉を溢した。
「寂しいよ、プロイセン」
聞いてくれる誰かは、もう背中にはいないのに。