セピア色の風景
「…どうぞ、この部屋です。」
カチャ、と開かれた扉の先には、まるで人の気配のしない部屋があった。備えられたベッドや机などの調度品は、どちらかというと機能重視のもので。凡そ、世界に名を馳せた大企業の、一人息子の部屋とはとても思えなかった。
「…あの子が、使っていたままにしてあるんです。部屋の中のものも、全てあの時のまま…。」
そう呟いた彼女の肩に、ルーティはポン、と両手の掌を置いた。
「…ありがと、マリアン。この部屋を見れば、貴女がどれだけあの子のことを想ってくれてたのかが解るわ。…あれからもう、十数年も経つっていうのに。」
「…ルーティさん…。」
この部屋はまるで、時が止まったかのように、今も主の帰りを待っている。隅々まで掃除が行き届いた部屋は、彼女が毎日この部屋の手入れを怠っていない証拠だった。
「それじゃ、私は下でお茶の用意をしておきます。…どうぞ、ゆっくりいらして下さい。」
何処か寂しげな笑みを浮かべ、実の母に面差しが似ているという彼女は、静かに部屋の扉を閉めて、階下へと去っていった。
クレスタのルーティの元へマリアンから手紙が届いたのは、つい先日のことだった。
彼女が財産目当て、と世間から誹られようと、今までずっと守ってきてくれたこの屋敷が、遂に教会へと改装されることが決まったのだ。屋敷の豪奢な調度品等は既に全て売却され、僅かに残されたもののひとつが、この部屋だった。
『どうか、お好きなものを持っていって下さい。…ルーティさんが大切にして下さるなら、きっとあの子も喜びますから。』
そうマリアンは笑ったが、果たしてそうだろうか。
…あの弟のことだから「お前が好きそうな、金儲けの本など僕の部屋には無いぞ。」なんて、憮然とした表情で言い放つ顔が目に浮かぶ。
全く失礼しちゃうわ、とルーティは想像の中の、十六歳のままの弟に悪態を吐きながら、改めて部屋の中を見渡した。
…必要最低限の家具の他は、何もない。唯一、部屋の持ち主の趣味だと思えるものは、棚に綺麗に整頓された、夥しい量の書物だけだ。
強制された英才教育の影響もあるだろうが、リオンは幼いときから本が好きだったのだと聞いた。…そういえば、旅の合間にもよく、宿のリビングなどで静かに本を開いていた姿を思い出す。
彼が幼いときから愛読してきたという、この部屋の書物は一冊たりとも処分してはいないのだというマリアンの言葉に、ルーティは孤児院の子供達にも読めるような本は無いかと、ざっと見渡してみる。
…そうして、気付く。この部屋には、子供の好むような、児童書の類は一切無かった。歴史、地理、レンズ工学、ソーディアンや天地戦争について、など。
…そんなものしか、無かったのだ。写真の一枚も飾られることの無かった、この部屋には。
胸の奥がずきり、と酷く軋むのを感じて、ルーティは思わず書棚の中の一冊に手を伸ばした。何の気なしに、パラパラと捲ってみたそれは、どうやら星座の本だった。
その本を手に取ったのは、他の本に比べて背表紙についた手垢から、彼が特に気に入って読んでいたもののように思えたからだ。
様々な星座の写真が並ぶ中、不意に数枚の紙片がパラ、と本の合間から舞い落ちた。慌ててルーティが拾い上げた、其処には。
…憮然とした端正な横顔に、笑顔で腕を絡める十八歳の自分の姿があった。
「…これ…」
床に舞い落ちた他の数枚も、急いで拾い上げる。
…其処には自分の予想通り、神の眼を奪還してダリルシェイドに戻った直後、全員で撮ったあの日の光景があった。
『…ほら!折角なんだから、笑ってくれよリオン!』
『…僕は写真は嫌いなんだ。お前達だけで、勝手に撮ればいいだろう!』
『いいからいいから!こんなとき位、素直になんなさいよね〜』
『…ばっ、…離せ!』
ぶつぶつと文句を言いつつも、結局は最後に一枚だけ、大人しく撮らせてくれた写真。
憮然とした態度を隠そうともせず、ツンと横を向いたまま。
『…ほら!アンタの分!』
全員分現像したそれを、最初は受け取ろうともしなかった。
『…要らないんなら、アンタの写真だけ此処で売り飛ばしてくけど?』
『…っ!なんて女だ…!』
ばっ、と奪うように懐に仕舞われたそれと、まさかこんな形で再会することになるなんて、思わなかった。
「……全く。どんな顔して、こんなこと書いたのよ…。」
狡いじゃない。あたしはそんなこと、書けなかったのに。
セピア色にくすんだ写真の裏には、酷く小さな、神経質そうな文字で。
[−姉さんと。エミリオ・カトレット−]
それが、静かに頬を伝い落ちた雫によって、僅かに滲んだ。