月が話した言葉
『都の外れに見棄てられた廃聖堂がありますね。そこにたった一人でやってきた花嫁の話をしましょう』
と、月は話しはじめました。
『1日じゅう吹き荒れた酷い嵐が過ぎ去って、真夜中の都は嘘のように静まり返っていました。わたしが雲の隙間から顔をだすと、誰もいない路地のいくつもの水溜まりが鏡面のようにきらきらと光りました。
白い衣装の花嫁は、そこへ、馬車にも乗らずたった一人で、忽然と現れたように見えました。
その上等な透き通るレースのドレスは、歴史ある肖像画から抜け出したような古風な形でしたから、わたしははじめ彼女を、人ではない何かなのかと思ったものです。不思議に思われるかもしれませんが、そういった出来事は、実は、それほど珍しいことでもありません。
聖堂の屋根はほとんど剥がれ朽ち果てて、わたしはその中までも、くまなく覗くことができました。
花嫁は、煤に汚れ手足の欠けた石膏のマリア像の前に、静かに膝をついていました。
――「不思議ね」頭を垂れた彼女がふいに口をきいたので、そこでようやく娘が幽霊ではないことがわかりました。
――「わたし、今まで何人も見送ってきたのよ。王さまの妹や息女、たくさんの若い娘たちが、遠い国へお嫁に行くのを」
聖母への懺悔というよりは、古い友人に対するような親しげな口調だったので、わたしは少し不思議に思いました。
――「泣く娘も多かったわ。祖国を離れる不安と心細さで、異国に嫁ぐ屈辱で娘たちは泣いていたわ。もしかしたら誰にも内緒で秘密の恋人がいた娘もあったかもしれない。皆、その細い肩に重すぎる責任を背負って、この国を旅立っていったわ。
泣き腫らした目を隠すことすらできない程幼かった彼女たちも、10年20年のうちに幾人も子を産み、立派な大人の女のひとになって、嫁ぎ先の暮らしに慣れていった。
それを見るたびわたし、人間は、なんて強いのかしらと思ったの。忘却は、神様が人に与えた、慈悲なのかもしれないわね」
「――ねえ、覚えているかしら?ずっと昔、わたしたちも、泣いたわね。
大好きな王様や大切だった上司、彼らが死んでしまって10年20年と時がたって、そのしわしわの手や、笑うときの口元や、細かいところはハッキリ覚えているのに、なのにどんな顔をしていたのかはぼんやりして思い出せなくなってしまったって、そう言って泣いたわね。あれはあなただったかしらわたしだったかしら。
人の営みはけして歩みを止めず、去っていく人と同じ数だけ新しい子が生まれ、私たちに、悲しみに憩う暇など与えられなかった。
いくら手を伸べても絶え間なく端から零れ落ちる時の流れの中、思えばわたしは、幼い心と身体のまま、ただただ頑なに立ち尽くしていたような気がする」
その時、はたちになるかならないかにみえる若い娘の横顔が、まるで100歳の年経た老婆に似ていて、わたしは驚いたのですが、――「だからね、あなたとはじめて、そうなった時」
そう誇らしげに微笑んだ彼女は、やはりたいへんにうつくしい娘でした。
――「はじめて、あなたと、そうなった時ね、
――これ以上ないくらい恥ずかしかったけど――笑わないでね、
わたし、はじめて本当に自分が生まれた気がしたの。
あなたの強く光る目が、戦場にしか興味のなかったはずのその瞳が、
見知らぬ欲望をたたえて、わたしだけを、見つめたとき
どんな武器も器用に操る手が、わたしの身体を、不器用にはいまわったとき
誰もかれもを煙に巻く傲慢な口が、役立たずになって、ただ無言のため息をわたしの肌に吹きかけたとき、
誰よりも貞潔なあなたが我を忘れ、わたしと赦されぬ罪にふけったあの夜
誰にも、神様にも内緒で、ふたりきりの秘密を作ったあの夜に――
わたしは、ようやく、世界に、納得できた気がする。
そして、たよりない、ちっぽけな裸の生き物になって、
世界じゅうでたったふたりきり、取り残されたみたいに迎えたあの夜明け、
眠るあなたを見つめながら、
このまま世界が終わってほしいと、そんな恐ろしいことを、半ば本気で願ったの」
――「今だけは誰も聴いていないから――どうか許してね――馬鹿なことを言うわ。
わたし、あなたに家族を産んであげる女になりたかった。
あなたの食べるものを整えて、あなたの帰りを待って、家に灯りをともす女になりたかった。
この両腕に抱えたすべてを天に還して、わたし、一度でいいから
あなたの、奥さんに、なってみたかった――」
――「わたしはたぶん地獄におちるわね。ここはきっと煉獄の入り口ね。
昨日の夜、あなたが来てくれて、わたし本当に嬉しかったのよ。
あなたがやっとわたしを連れて行ってくれると思ったの。あなたがまた、わたしの為に罪を犯してくれると喜んだの。
あれは夢だったのかしら。これは罰ということかしら。
目を覚ませばわたしはひとりで――そしてわたしは、
わたしの見送った娘たちと、同じ道を歩き始めるのね。今日、この日から」
――「ねえ、これで最後だから、酷い我が儘を言うわ。どうかわたしを赦さないで。
わたしはあなたを赦さなから。
そしてわたしを忘れないで。わたしはけして忘れないから。
わたしはあなたに苦しんでほしい。わたしもおなじだけ苦しむことができるから。
酷い女ね。酷い我が儘ね。わかっているわ。
あなたのことになるとわたし、世界で一番恥知らずの酷い女になるの」
そう言うと、花嫁は立ち上がり、物言わぬ聖母の白い顔を仰ぎ見て、言いました。――「きいてくれてありがとう。どうかすべて忘れて。わたしも、忘れます」
花嫁が立ち去ると、聖堂はまたもとの静けさを取り戻しました。
異変があったのはそれから暫く後でした。突然、マリア像の背後の闇に溶けるように蹲っていた影が立ち上がりました。
それは古めかしく上等な軍服を纏った背の高い若者でした。
ずいぶん長いこと、おそらく嵐が吹き荒れたあいだもずっと、そこにいたのでしょう。銀色の髪にはいくつもの小枝が絡み付き、びっしょりと露にぬれぽたぽたと雫をたらしていました。青ざめこわばった横顔は、まるで怨みを持って死んだ戦場の亡霊のように見えました。その顔に、わたしは見覚えがありました。
それは昨晩、花嫁の部屋に忍び込んだ若者でした。
彼が、眠る彼女の細い頚に手をかけ、絞め殺そうとして、とうとう果たせず立ち去ったところを、わたしは、眺めていたのです。
彼は、ゆっくりと身体を起こし、先ほどまで娘が膝まづいていた場所に立ちました。
娘の落とした涙が、マリア像の足元に小さな水溜まりをつくっていました。
恋人を殺すことができなかった若者は、告悔する騎士のように、聖母の足に額をつけました。
そして、槍や剣に突き殺される寸前の手負い野獣のような、長く恐ろしい呻きをあげ、それから啜り泣くような、ちいさな声で囁きました。
――「呪われるがいい、くそったれの売女め。満足か?」
彼の涙が娘の涙の上に落ちて、ちいさな、ひとつの池になるのを、わたしは見ました。
――「お前は俺から失われ、
にもかかわらず、望み通りこの俺を、手に入れたんだ。永久に!!」』
end.