雨ざらしの太陽
ざあざあと降り掛かる雨から逃げるように建物の中に駆け込むと、たまたま玄関口に居合わせたアドルフが、ずぶぬれじゃないか、と目を丸くした。
こちらが何か言うより早く、タオル持ってくるから待ってろよと彼が慌ただしく戻っていった。
室内を濡らすわけにはいかないから、玄関口で小さくなって佇んでいると、やがてぱたぱたと身の軽い足音がする。
アドルフではないとすぐに分かる。
「あ、おかえり、エーリッヒ!」
ひょこんと顔をのぞかせたのは我らがリーダーで、エーリッヒを見て先程のアドルフと同じく、元々大きめの目を更に丸くした。
ただし、どことなく嬉しそうに、だ。
「わ、びしょぬれだね」
「ええ、途中で降られてしまいまして」
「傘、」
「はい?」
「持っていかなかったの?」
「予報では、降り出すのは夕方からと聞いていたので、」
油断しました、肩を竦めて笑うと、ミハエルは、エーリッヒらしくないなあと言いながら、それでもにこにこと笑った。
面目ありません、首を傾ける。
そうしてミハエルを見てから、はてと気付く。
「……ミハエルは?」
「うん?」
「どこかお出かけですか?」
「うん」
見れば、ミハエルは完全に外歩きをするような出で立ちだ。
うん、と答えたミハエルだが、エーリッヒは心配になる。
「でも、」
「なに?」
扉越しに、先程まで自分が走ってきた外を眺めやる。
ずぶぬれになった自分の姿を見れば一目瞭然、
「雨、ひどくなっています、が……」
こんな雨の中、いったいどこに出かけるというのだろうか。
風邪でも引いたら、と元々心配性の気があると自覚のあるエーリッヒは、途端に眉根を寄せた、が、
「うん、」
ミハエルはまたにこりと笑った。
「雨だから、出かけるんだよ」
なんですかそれ、と口を開く前に、ああそうだ、とミハエルが白い両の手をぱちりと打った。
とてもいいことを思いついた、そんな顔で、
「エーリッヒも一緒に行こう!」
くいと腕を絡められて、エーリッヒは慌てた。
なにせ自分は水が滴るほどに全身濡れてしまっているのだ。
「ミハエル、濡れてしまいます…!」
「いいよ、どうせ濡れにいくんだから」
「え?」
「僕ね、」
にこり、上機嫌の顔が自分に向けられる。
「雨に濡れるの、好きなんだ!」
ざあざあと、雨は降りしきる。
足を進めるたび、ぱしゃりと弾く水滴がミハエルの足にかかってしまわないか、そればかりが心配だった。
しかし、エーリッヒの心配をよそに、傘も持たずにミハエルは跳ねるような足取りで森の中の小道を進んでいく。
時折木々を見上げて、草の影に隠れた虫を見つけて、灰色の空に手を翳して、始終上機嫌の様子だから、結局エーリッヒは何も言えなくなってしまう。
甘い、という自覚もある。
だが、エーリッヒ自身が全面的に信頼しきってしまっている相手に、何をどう言ったものか。
きっとミハエルが風邪なんて引かないと言えば彼は風邪など本当に引かないのだろう。
自らの体調管理を怠るような人ではないから。
また、心配しすぎだよと笑われるだけだ。
そもそも、リーダーである彼の意志を最優先に考えるのが常だ。
彼の意志に沿わない選択肢が普段からないのだから、困ってしまう。
「…また、何かいらない心配してる」
肩越しに振り返った顔が、面白がるような色を乗せた。
「心配性だなあ、エーリッヒは本当に」
「……あなたは、大事なリーダーですから」
当然です、わずかばかり、真剣みを帯びて言うと、くるり、ミハエルが向きを変えた。
そこで立ち止まって、エーリッヒを待つようだったから、一歩、二歩進めて追い付いた。
背丈は随分違うから、間近で向き合うと自然、見下ろす角度になってしまう。
ミハエルを相手にそうするのがどうにも居心地が悪くて、小さく身を屈めた。
ついと、ミハエルの手が伸びてくる。
両手で挟むようにして頬を引き寄せられた。
「ミハエル?」
間近に迫る瞳。
澄んだ瞳は若葉の色で、けれど深い深い底を感じさせない色。
辺りの雨に濡れた景色を映して、より一層の深みを帯びて、エーリッヒを見つめる。
「リーダー、だから?」
「え……?」
こつんと、額同士がぶつかった。
ミハエルの濡れた前髪が額にはりついて、雫が垂れた。
ぽとり、頬を伝って地面に落ちる。
「大事なのは、僕が、リーダーだから?」
「ミ……」
息もかかるほどの距離で吸い寄せられるような若葉色に見つめられ、ひそやかな声音での質問に、思わず窮した返答。
ざあざあと雨の音だけがして、しばし時が止まったようだった。
一向に止む気配のない雫は、際限なく自分とミハエルとを濡らしては地面に落ちる。
それだけが、この静けさの風景の中で動いている。
やがて、くすりとミハエルが笑った。
「きれいな、青だね」
一瞬何を言われているのか分からなかった。
しかし、額を離して今度は瞼に唇が寄せられて、ようやくその青が自分の瞳を指すのだと気付いた。
「濡れると、いつもよりもっと綺麗だ」
そう呟きが聞こえるのと、瞼に口づけられるのが同時だった。
思わず閉じた両の目の向こうで、ミハエルの微笑んだ気配。
「僕は、」
挟まれたままの頬に触れる指は、こんなに降りしきる雨に曝されてもなお温かい。
「部下でなくても、大事だけど、ね」
「ミ、ハ……」
ふふ、と笑う声が瞼から離れて今度は下に向かい、
「僕は、好き、だけどね」
唇に柔らかい熱が触れて、そして一瞬で離れていった。
「帰ろうか」
呆然としていると、ほら、と手を掴まれた。
すいと絡んだ指は自分のそれより細く小さく、しかし、自分のそれよりも温かさに満ちていて、どこかほっとする。
「帰ろう、エーリッヒの心配がほんとにならないうちに、さ」
「……はい、ミハエル」
握られた手にそっと力をこめて握り返すと、雨空の下、雨曝しの太陽が輝かしく微笑んだ。
2010.4.8