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鬼さんこちら!

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鬼さんこちら!





セルティは驚いた。あまりの驚きに硬直した。

「どうすればいいんだ」

その心細げな言葉は、いつもの平和島静雄とはあまりにかけ離れたものだったので。







花々の麗らかさが新緑の爽やかさに取って代わる頃、池袋にもまた少し早い夏の訪れを知らせる姿があった。瑞々しい肌を見せつける女子高校生の集団があちこちに現れ、男どもの本能を刺激する。だが、平和島静雄はそんなことは気付きもせず、今日も元気に取り立てに励んでいた。

「もう夏だなあ」

そうトムが言った時も、そういえば最近少し蒸し暑いなと思っただけであった。この男は、鋭い部分と鈍い部分が極端に偏っている。その時、偶然通りかかった竜ヶ峰に声をかけられなければ、夏が終わって冬がくるまで気付きもしなかっただろう。

「静雄さん」

「よお、帝人」

「はい、こんにちは」

涼しげな半袖の白シャツと、むき出しになった細い腕を見て、ようやく静雄は気づいた。

「衣替えか」

「はい。やっと、ですよ。もう長袖暑くって。静雄さんはそれ暑くないんですか?」

私服のバーテン服は、当然長袖で、確かにこの日差しの中では少しきついように思われる。

「ああ、俺あんまそういうの意識しねえからな」

これが、折原臨也ならば、単に鈍いのだと言ったところだろう。だが、彼は竜ヶ峰帝人だったので、余計なことは何も言わず、すごいですね、僕すぐにバテちゃうんです、と無難に返した。見上げてくる黒い眼に、なんとなくつい手が伸びて、頭を撫でる。そして、違和感を感じた。少し濡れている。一瞬止まった手に気づき、帝人は笑って説明を寄越す。

「今日の体育はプールだったんです」

なるほど、そう言われれば肌も少し湿っている。湿った髪から、瑞々しい項へ無意識に指を滑らせ、

「……ひゃ、」

冷たい肌の感触と、その声に、頭の一部が焦げつきかけた、その時。

「静雄」

冷や水を浴びせるようなトムの声が、それを押しとどめた。

「静雄さん?」

うっすらと頬骨の上を赤く染めて、戸惑いを浮かべた目で、帝人は静馬を見上げた。その稚さが醸し出す何かが、頭の中に残る燻りを刺激し、目の前の獲物以外の輪郭をにじませる。

「静雄、そろそろ次いくぞ」

トムがまたもや制止にかかる。は、とようやく我に返った静雄は、慌てて魅惑的な肌から手を離した。

「お仕事の邪魔してすみませんでした。また今度」と頭を下げて、離れて行く帝人の腕を掴もうとする衝動を抑え込み、「おう、またな」とかろうじて笑顔を作った。作れていたと信じたい。







「それで?」

セルティはもぞもぞとしながら、新羅は辟易した顔で、続きを促す。まさか性欲が暴走してしかたないとかいうくだらないオチではないだろうなと、うんざり感を顕に、それでも聞いてやる自分はなんて友達思いなんだろうと、現実逃避に近い自画自賛を心中でもらした。

「そういや君、まだ手出してないのかい?相手は高校生だから躊躇うのもわかるけど、我慢しすぎていきなり暴走するより、ちゃんと話した方がいいよ。あの子もまあ恋人の誘いを無下にはしないだろうし」

「恋人」

静雄の周りの空気が、深海よりも暗い色を帯びる。その反応に、勘のいい新羅は、何かに気づいた。気づいてしまった。

「え…、まさか、君らって」

『え、お前ら付き合ってたのか?私は知らなかったぞ』

「まだ付き合ってなかったのかい!?俺はもうとっくにくっついているもんだと…」

「…つまり、俺は帝人が好きなのか?」

「そこからかい!!?」

『自覚なかったのか。私だってそれくらいは気づいていたぞ』

そうか、そうなのかと、更に顔色を暗くして、静馬は俯いた。彼の周りだけ重力が違うのではないかという疑いを持たせるほどに、重苦しい空気を纏っている。

「静雄、よく聞きなよ」

「愛の前には、種族の違いなんて些細なものだよ」

僕と君のようにね、と新羅は、愛しいデュランハンにウインクを送った。

「だから、年齢や性別なんて何の障害にもならないさ」

新羅は、コーヒーを飲みながら、一人心地ちる。

「それで、君は高校生の男の子を好きになったことに落ち込んでいるのかい?」

「いや、それもあるが…」

曰く、今回見事に静雄の手綱をさばいたトムから、更に厳しい指令をいただいたらしい。それは、「告白しろ」「そして、さっさとくっつけ」というものだった。

路上で、危ない気配をむき出しにした静雄を見て、一番危機感を覚えたのはトムだった。路上で、たったあれだけのことで理性が飛びそうになるのだ。危険すぎる。静雄を止められる人間いつも傍にいるわけではない。静雄の我慢が効くかどうかなど、もっと怪しい。このままでは、いつか、無理やりに、という最悪の結末になりかねない。そんな事態になる前に、帝人の了承をもらい、同意の上での行為にしてしまえ、という無茶な理屈だった。

「俺は…、どうすればいいんだ…」

「コクれコクれ。そんで、好きになってもらえるまで口説き続けるんだね。それしかないよ」

唯一帝人の気持ちを知るセルティは、文字を打つ手を止めて、迷走する男どもを見守っていた。







新宿の数あるカフェの一つに、静雄がいくら憎んでも憎みたりない情報屋と、本人の与り知らないところで悩みの種となっている、大人しそうな高校生の姿があった。目の前の危険人物を待ったく気に止めず、黙々とオムライスを頬張る姿は、彼を本来の年齢よりも幼く見せている。

普段は鬱陶しいほどに口の回る男はそんな態度に文句も言わず、底知れない笑みで彼を見つめていた。その片耳に入れたイヤフォンは、ラジオの形態をした盗聴器に繋がっている。面白いことになっているようだと、黒幕気取りの情報屋はほくそ笑んだ。

あの化け物が恋をした。そして、告白ごときにあたふたしている。そのみっともない様は、まるで人間のようで面白かった。

「何か楽しいことでもありましたか」

澄んだ眼は疑念の欠片も映さない。今のところ、帝人は臨也を信じている。

臨也は、静雄の恋が成就しようがしまいがどちらでもよかった。非日常に焦がれながら、日常を絶対に捨てない帝人が、非日常そのものである静雄をどう受け入れるのか。興味をそそられる。そして、更に彼らが破綻する日がくることを思うと、心が浮き立つ。だから、盲目になっている静雄を笑いながら、静雄に惹かれていく帝人の背を押してもいい。逆に、今ここでいろいろと吹き込んでやってもいい。

「君といることが嬉しくて」

「はあ、それはどうも」

池袋の喧嘩人形が今何に頭を悩ませているかなんて、彼は知らない。
そんなことをしている間に、片恋の相手が、臨也に掻っ攫われていることを、あの化け物は知らない。臨也は愉快だった。

すっかりご満悦の情報屋は、目の前の少年の思惑など考えもしなかった。

帝人は、世の中の高校生の中では多忙な部類に入る。その彼が、新宿で時間を潰しているのは、目の前の危険人物を少しの間でも池袋から遠ざけておきたいからだった。この理屈っぽい男と鉢合わせる度に盛大に怪我をしてしまう人がいるのだ。
作品名:鬼さんこちら! 作家名:川野礼