憂いのガール
そんな風にして北島マヤという女は頬笑み、姫川亜弓という女の表情は誰にも知られぬほどひっそりと強張った。
風がゆるりと凪いで、亜弓のもつ豊かな髪が静かに揺れた。
紅天女のふるさとは、とても現世とは思えぬほどの淡い流麗さを持って二人を迎え、そして未だ緩やかに拒絶している。マヤの提案による、外での食事とやらは、その拒絶を肌で感じるいい機会でもあった。
まだ違う。こうじゃない。模索はいずれ疑心になり、疑心はいずれ核心となる。そう信じて、亜弓はこの里での一瞬を生きる。そう誓っていた。
それだのに、このマヤという女性にとっては一切が違うようだった。彼女の根底には、演技への打算や計算はなく、ただひたすらこの里を、愛そうとするだけの情念があるらしい。ぬるま湯のごときそよ風が頬を濡らすさまを、穏やかに愛でるだけの日々なぞ、亜弓には一生、理解しかねるものである。
「彼女に敵わない、わけはない」 そう信じ続ける心が、気を抜いた途端にぐしゃぐしゃに潰れてしまいそうになって、ジリ、と胸の奥が痛む。このまま徐々に心音はおさまり、呼気はあっという間に消え、知らぬうちに双眸は閉じられているのかもしれない。
亜弓の心臓に、つきつけられた刃が、いつ突き立てられるかは誰も分からないがしかし、近いうちに、その時はやってくるのだろう、きっと。
嗚呼こんなことばかり考えてしまうのは何故かしら彼女と出会ってからその実一度も安穏は現れてくれず私はやにわに魂を削られ疲弊しボロボロになってしんでしまう気だってしているのに。
そう、死んでしまうのかもしれないわ。
予め用意されていた簡易なつくりの弁当を、半分も食べきらないうち、マヤはぺろりと平らげていた。まるで野生ね、と、思わずため息を零すと、それに気付いたらしい。恥ずかしそうに笑う。
「私、昔っからこういう風にがっついちゃって、だめだなあ」
「……別に、咎めているわけではないのよ」
「うん、でも、亜弓さんは食べ方がとてもきれいだから」
「そう、かしら」
「うん! すっごく綺麗!」
ひとつの嘘もない言葉が、嫌でも耳元で反響する。素直な言葉は胸を打つし、それを受け止められぬほど狭小な心でもない。長くを芸能界で暮らし、他人の世辞や虚の言葉になれた亜弓にとっては、その言葉はいっそ、毒のように身体を蝕んでいくような、度を越した甘美さを齎していた。
「マヤ、貴女は分かりやすくていいわ」
「え? そうかなあ……私は亜弓さんみたいに余裕がある人のほうが、羨ましいんだけどな」
あまり櫛を通していないせいで、ほんの少し荒れた黒髪が、隣からの風でゆらめく。それは一筋に何がしかを追い求める人間だけが持つ、栄光ある粗雑に違いない。亜弓の、手入れがいきとどいた髪はまた、血のにじむような努力から生まれる輝きであり、どちらも決して卑下することの出来ない美徳があった。
しかし亜弓にとってはその粗雑が、羨ましくもある。
亜弓の言葉にひとしきり照れたマヤは、手元にある、空になった弁当箱に目を遣る。途端に訪れた沈黙に、亜弓はなんとなしに、理由を察した。
「……少し食べる?」
「えっ!」
「足りなそうにしているから」
「えっ……うそ、わかっちゃった? やだあ恥ずかしい!」
両のてのひらで真っ赤になった顔を隠し、マヤは悲鳴に近い声を上げた。そんなに過剰に反応しなくてもいいのに、と思うものの、確かに自分の空腹を見抜かれた挙句、譲ってやろうかなどと言われれば、それは女性として酷く恥ずかしいことなのかもしれない。普段から適度な量だけをバランス良く食べている亜弓にとって、譲ることなぞなんら気にならないことではあった。
「ごめんなさい。いけなかったかしら」
「あ、ち、ちがうの! そうじゃなくてね……亜弓さんが悪いわけではまったくなくて」
「なら、差し上げるわ」
「うう、有難うございます……」
その言葉に続くようにして、マヤの腹が一度大きく鳴った。消えたい、と文字通り消え入りそうな声で呟かれた言葉に、思わず口角が上がる。
ハッとする。
その瞬間また、「死んでしまうのかもしれないわ」――そんな風に胸が痛んだ。
底抜けに明るい性格かと思えば、驚くほど消極的でもある。大胆になれるのは役に入り込んでいる間だけで、基本的にはあまり、快活な方ではないのかもしれない。亜弓が分かるのはそれだけだった。それだけなのに、それだけで十分なほどに、亜弓の心に、北島マヤという存在は頓挫する。いくら押してもびくともせず、その場から一歩たりとも動こうとしない。
「亜弓さんが幸せだと、私すごくうれしい。亜弓さんのような人が、幸せになってくれなきゃ。」
そう言ってマヤが笑ったのはいつの話であったろうか。
世界で一番、反芻した言葉かもしれず、誰もいない居間、その硬い椅子の上で、唇を噛んだ。一生敵わない相手だと、どこかですでに答えは出ているのかもしれない。しかしそれを認めたら最後、自己を形成するための”確固たる自信”が打ち破られ、大きな音を立てながら崩壊してゆきそうで、恐ろしくて仕方なかった。
恐ろしかった。
心の内側に意図も簡単に入り込み、姫川亜弓という存在の圧倒的な努力と実力、高貴なプライドさえもを凌駕していく、その存在が。
「マヤ、私はあなたを好きになることは出来ないわ。でも嫌いになることは、もっと出来ないの」
もう手遅れだと知りながら、亜弓はゆっくりと呟く。
決して涙は見せない。
誰もいない居間。風の音だけが耳に届く。
明日からまた、紅天女の試験が始まる。
〆
「憂いのガール」
/2010.0411