白い××の日
目の前の彼女は僕にいったい何を期待しているのか。
「どうしたのまーちゃん。ベランダから簡易ダイビングでもするつもり?」
とぼけながら訊いてみたらそうじゃないのー!と怒られた。うお、手を振り回されると危ないんですが。
「今日は、ホワイトデーなんだよ?忘れちゃったの、みーくん?」
ああ、あの雪も積もっていないのに世界は白いねって言いあう恋人たちの祭典ですか、嘘だけど。
「まあみーくんのことだからまーちゃんへのお返し忘れてるんでしょ、」
まったくもってその通りである。しかし確か一ヶ月前の今日に僕が貰ったのは何故か糸を引く甘くない茶色の物体だったような記憶があるのだが。あれを果たしてチョコレートと言ってもいいものなのか。
ごめんな忘れてたと正直に言ってみる。機嫌の良さからして殺されかけることは無い、きっと。
仕方ないなー、そうふにゃふにゃ笑った彼女は上機嫌な声でとんでもないことをお言いになった。
「だから、みーくんからまーちゃんへのお返しは××の言葉で許してあげるのです!」
え、××?
まーちゃんったら優しーっと一人きゃいきゃいはしゃぐ彼女をぼうっと見る。今、マユは、なんて。
反応のない僕に気づいたのかマユが訝しげな視線を向けてくる。
「あれえみーくんどうしたの?ひょっとして恥ずかしいのかにゃー?」
ごろごろ猫みたい喉を鳴らしてぎゅうっと前から抱きついた。
華奢な腕から生えてる骨ばった手から伸びる細い指の先に植わった色の抜けた爪が背中に食い込んで。
「××してます、××してるの、ねえ。」
鼓膜をざりざり蝕む苛む言葉がごろりと喉を通って胃の腑に溜まる。
ああ吐き気がする、捩れて切れて焼けつくようで、いっそ裂いて内臓全て取ってしまえば楽になるかもしれない。あれ、そうすると真っ先に取られるのは脳みそってことになるな、それは困る、非常に困る。何故なら大好きなまーちゃんのことを考えられないし何より嘘がつけない。いや、声があれば吐けるか。なんせ僕は嘘製造器なんで、のーみそ一個なくなったくらいじゃ嘘を吐くことをやめようとはしないのですよ、嘘だけど。ああほらまた。
こんな難儀な名前をつけた両親を珍しく恨んだ。いや、最近まで特に感慨を覚えたことは無かったもので。
恐怖と絶望以外の感情を両親に向けること自体少なかったからな、もちろん嘘だけど。
本当は結構いろんな感情向いてたはずだったし。はず、だったし。
まあそんな少年時代の塩っ辛い思い出はゴミ箱にしまっておくとして、いつまでも現実逃避してるわけにはいかないよなあ。
御園マユと向かい合ってからの五分。その五分をたっぷり使用してぐるぐる考えていた、内容は主にどうしたらその言葉を言わずに済むかということ。
しかしここで僕はおやと顔を顰めた、今日はマユがやけに大人しい。
いつもなら僕が考え込んで一分も経たないうちに「みーくんはやくー」とかの言葉と共に首がもげるような力で肩を揺さぶられたりまーちゃんのお膝が鳩尾にクリティカルヒットしたりとまあ要はどめすてっくでバイオレンスな状況が主に彼女によって作り出されるのだが、今日に限って五分経った今でもそれがない。
うつむき加減で僕の背中に手を回す彼女の顔をそうっと覗けば、目をつぶったままで器用にも眠っていらっしゃった。
すぅすぅ音を立てる寝息にまーちゃんかわいいなーなんて嘘を吐きながらさてどうしようかと悩んだ。
だってまーちゃんの手はがちりと背中を捕えるように回されているし、動けば更に爪が食い込みそうだ。
かといってこの格好は辛い、辛すぎる。目の前に可愛い女の子がいる健康的男子のような意味ではなく、抱きつかれているという体勢がだ。お膝の上に乗っけたマユは軽いといっても一人の人間だ。ある程度の体重を有している。まーちゃんが一時間かそこらで起きてくれる保障なんてどこにもないうえ、下手したら丸一日このままだ。
僕は抱き枕じゃないのですよ、せめて自由に動きたいので背中のまーちゃんの手をはがしにかかる。
がちりと固定された腕は動く気配を見せない。こういうのなんだっけ、しごこーちょく、とか?いや嘘だけど。
格闘すること30分。
諦めた。
まあたまにはいいのかもしれない。これはこれで幸せだし。
幸せ確認できるくらいには、今僕らは余裕がありますよ、って。嘘なんだけどさ。
起きた時まーちゃんがあの言葉を忘れていることだけ願いながらぼうっと宙を見上げて一日分の時間をやり過ごすことにした。
今日も明日も百年後も世界は平和です。多分、嘘だけど。