神主と先生
コートのポケットに両手を突っ込んで、口元まで覆ったマフラーの中で息を吐く。
神無月は、人通りの少なくなり始めた夜更けの商店街を、のろのろと一人で歩いていた。
肩にかけたショルダーバッグの中には、講義で使った資料と、取り寄せていた文献が、束になってごっそりと入っていた。おかげで、担いでいる右肩に重心が寄ってしまうものだから、どうにも歩きにくくてかなわない。
駅のホームに降りたときは、今夜こそ真っ直ぐ家に帰ろうと心に決めていた。早くこの重荷を下ろし、熱い湯に肩まで浸かってゆっくり温まったら、寝酒に一合だけ燗をつけて、炬燵でちびちびとやる。これこそ平日の夜における最高の贅沢に違いない、と夢想しながら階段を下りたはずだ。
それなのに、気づけばいつの間にか、馴染みとなった居酒屋の暖簾の前で、神無月は足を止めていた。
何の変哲もない赤暖簾。それを斜に睨みつけ、知らずため息がこぼれた。
暖簾を手の甲で除けてくぐり、がらっと戸を引くと、若い主人の威勢の良い声が聞こえ、それに釣られたように、狭い店内の客が数名、ぱらぱらと顔を上げた。
だが、そんな中で、カウンターの片隅に座るその男は、考えごとをするように目の前の宙をぼんやりと見つめたまま、こちらを振り返る気配さえない。
神無月の存在には気づいている。ただ、振り返る必要を感じていないのだ。
頼んでもいないのに一人分空けてある隣の椅子を見て、神無月は苦い笑みを口元に浮かべた。
「なんで毎日いるんですか」
我ながら、馬鹿なことを言っている。
男はこちらを見上げて、おかしそうに片眉を上げた。
「お前こそなんで毎日来るんだよ」
質問に質問で返すな、と言い返してもよかったが、神無月は担いでいた荷物をドサリと床に置くと、男の隣の椅子に腰を下ろした。
腐れ縁の幼なじみで、犬猿の仲。
自分と傍らの男――極月との関係を説明しようと思えば、それらしい言葉は幾つか浮かぶ。だが、どれも正確ではない。過不足なく、しっくりと収まるような言葉を、神無月は未だに見つけることができずにいる。
「寒いですからね。一杯ひっかけたくなる気温じゃないですか」
「まぁな」
極月はおざなりに相槌を打つと、グラスを傾けて水のように酒をあおった。
実際のところ、その無色透明な液体が何なのか、傍から見ただけでは判別できない。だが、それがどんな種類の酒だろうと、水のようにあおるアルコール度数でないことだけは、神無月にも断言できた。
「なに飲んでるんです?」
何となく思いつきで訊ねたら、極月はにやりと口角を上げた。
「ちょっと飲むか?」
「……え」
とっさに表情が強ばったのを見てとり、相手はガキ大将のころを彷彿とさせる表情を浮かべた。
「遠慮すんな」
誰が遠慮なんかするか、と言うよりも早く、男はカウンターの中に声をかけ、勝手に注文を追加してしまった。神無月がじとりと横目で睨みつけると、極月はケラケラと声を立てて笑った。
本当に馬鹿馬鹿しい。心底くだらない。
だが、結局こうして隣の席に座ってしまっている自分が何かを言ったところで、この男はどうせ聞きやしないのだろう。
神無月が来ると思うから、この男は毎日この店にいるのか。
それとも、この男がいると思うから、自分は毎日この店を訪れてしまうのか。
答えなど確かめようもないし、そんなものには興味もない。
ただ、どちらが正解だとしても、神無月にとっての極月が、どうしようもなく厄介で腹立たしい存在だという事実だけは、きっともう死ぬまで変わらないのだろう。
そんなろくでもない予感を抱きながら、神無月はじわじわと温まってきた指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。