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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
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【それなら本気の顔と心意気でやってくれ】

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力がほしい。
それは男なら誰だって思うことだ、と夷澤は思っている。
実質的な力、上から何事かを言える力、大きく団体を動かせる力。
とにかく力がほしかった。
口に出してハッキリと言えば、相手は聞いているのかいないのか。
というか、まるっきり夷澤の存在をないもののようにしてくれたわけである。
あげく「言いたいことはそれだけか?」の一言。

「どいつもこいつもっ、腑抜けやがって」
あまりにもイライラするものだから、思い切り眉間にしわを寄せて歩いていた。
苛立ちを隠さずにいれば、不意に体に重みがかかる。
「夷澤、なーに拗ねてんだよ」
こういったことを夷澤にできるのは、一人しかいない。
同じボクシング部に所属しており、自分が補佐すべき人間。
葉佩九龍、その男だった。
「関係ないでしょ、アンタには」
思いからどいてくださいよ、と体をよじるようにすると素直に体をよける。
しかしどっかに行け、と言ったほうがよかったと直後後悔した。
そのまま隣でのんびりと足を動かして、ついてくる。
「阿門へのおねだり、失敗したのか?」
「お、おねだ、り……。アンタ、ほんと馬鹿じゃないっすか」
顔をひきつらせる自分とは正反対で自然に微笑む葉佩を横目に、ため息をつく。
双樹が甘えるような声で言うならまだしも、夷澤は男だ。
それを「おねだり」なんて言われて黙ってはいられない。
確かに「権限をくれ」なんてことは言った。
言ったが、自分のおねだりなんて想像するのも気味が悪い。
「俺があの人に甘えた声だしてどーするんすか、気持ち悪いだけでしょ」
頭に手をやりながら言うと、少し笑った後に葉佩が口を開く。
「ま、阿門には効きそうにないよな」
言い方は気になるが、気にしたって無駄だと思いながら黙りこむ。
そんな夷澤を知ってか知らずか、葉佩は話を続ける。
「阿門からじゃなくて、俺から貰えば良いじゃん。権限くらい」
ぎょっとして横を向くと、そこにはやはり笑顔の副会長しかいない。
聞かれてた、だとか色々思うところはある。
『呼び出しにすら応じないくせに、余計なところだけ聞きやがって……!』
そんな思いを、どうにか飲み込む。
今度は真逆を向いて馬鹿にするように、夷澤は口を開いた。
「アンタが生徒会長なら、そうしたいところっすけどね」
言外に副会長ぐらいの役職の男に興味はない、と言ってやろうとした。
すぐに言葉が返ってこないことに、鼻を鳴らして笑ってやりたいと思う。
『ざまぁみろ』
いくら補佐がいようが、「副」なんて漢字がついているものに興味はない。
自分の好き勝手に物事が運べて、誰もが恐れひれ伏すような強さ。
そんな権力を、しっかり手中にしたいのだ。
さぁ、言われた男はどんな顔をしてるんだか。
そう思いながら振り返った夷澤の目に映ったのは、同じように笑う葉佩の姿だった。
同じような笑顔なんて、気味が悪いと思い顔をしかめる。
それも大したことでないように、葉佩は優しい先輩の顔で夷澤を見ていた。

「俺はさ、夷澤に幸せになってほしいんだよ」
「それならせめて、俺がやるべきじゃない仕事増やさないようにしてくださいよ」
何言ったって無駄だ、と思えばもう軽い返しで済む。
そう言わんばかりにあしらおうとすると、振り払おうとした右手の首根っこを掴まれた。
少し力を入れて、諦める。
ここで、何すんだこの馬鹿なんて言って殴りかかろうものなら、どうなるかわからない。
『だけど俺は、そうしてみたい』
本能で悟れ、と言わんばかりの威圧感と空気に背筋がうずいた。
戦いたい、なんて本能まかせにしてみたい。
一度でいいから、この男の本気と自分の本気をぶつけ合いたい。
そんなことを思う夷澤の頭に、少しだけ霞がかかったようになる。
頭を振るわけにもいかず、眉根をよせてそれをかき消すように頭に力をこめる。
右手首を掴んだ温かい手をそのままに、葉佩の方に引き寄せられる。
やはり、笑顔のまま。
会長である男に「お前が甘やかすと、調子に乗る」なんて諌められたと言ってくる時も。
《転校生》である、例の男のことを語る時も。
誰とどんな話をする時も、その笑顔は崩されない。
崩さないように、している。
その笑顔で、葉佩は夷澤にそっと顔を近づけて囁くように言う。
「俺はお前が無条件でシッポ振ってくれる日を、心待ちにしてるんだよ。夷澤」
瞬間、震えが走るくらいに寒気がした。
かろうじて耐えながら、夷澤は葉佩を見る。
これだけ、冷たい空気をまとって話せる男だったのか。
『怖い、なんて』
そう一瞬でも思った自分の負けだと、夷澤は視線を落とす。
笑顔の奥になにがあるかなんて、わからないしわかりたくもない。
ゆがんだ考え、ゆがんだ愛情。
男の中で渦巻くだけなどころか、自分にしか向けられない思い。
「お前になら、権限だってやる」
副会長の権限だって捨てたもんじゃないし、俺が絶対お前を会長にしてやる。
葉佩の空いていたごつくて温かな右手は、夷澤の頬をそっと擦った。

その手は、優しいのに。
「将来だって、陰りができないくらい明るくしてやれる」
かけられる言葉も、その唇からでる声もこんなに優しく聞こえるのに。
『その目は、俺を見ちゃいないんでしょ』
所詮その程度ですか、と笑ってやりたかった。
こういう時に愛をむける相手と自分の視線を合わせることのできない、男なんですかと。
夷澤だって、阿呆ではなかった。
葉佩の自分に対する意識は、彼が一般人にみせる普通のものではない。
『それくらい……わかってる』
だが、それに自分がそぐわないかどうかなんて、自由だ。
震えた息を出しそうになりながら、腹に力をめいいっぱい入れながら声を絞り出す。
「見えないシッポなだけに、そう簡単に振れる代物じゃないんでね」
極めつけに口角をあげて笑った夷澤とようやく視線を合わせた葉佩が、目を丸くした。
それはすぐに元通りになって、つまらないと思いながら体勢は変えない。
だけど、夷澤と同じような高さに顔を持ってきている葉佩は、元の高さへと体を起しながら。
はっきりと、口にした。
「千切れんばかりに振るくらい、懐かせてやる」
その後に見せた笑顔の方がよっぽど人間らしい、と。
夷澤が偽りの笑顔で過ごす男に言ってやりたいぐらい、いい顔をして。