そんな風に愛してごらん
今までの、おおよそ品行方正と言える人生の中で、そうした下劣な単語を口にしたことはなかった。これが初体験となる。二回目があるかどうかは分からないが、少なくとも今後絶対にこれが初めであることを忘れはしないだろう、そう思う。なにせ言う相手が彼だから。
「で、話って?」
池袋の、若者が決して立ち入らないような古びた喫茶店だった。どこでこの場所を知ったかは分からないが、彼の天敵、平和島静雄は絶対に来ないよという言葉を信用して、入った。今日ばかりは邪魔されてはいけない。決して静雄のことを嫌っている訳ではなかったが、二人が出会えば必ず争いになるという誰もが知る事実から考えて、今日は何があっても顔を合わせる訳にはいかなかった。一度でも争いが始まってしまえば、今日彼にそれを告げるチャンスは消えてしまうだろうし、そのチャンスは一度逃すと二度とこの手に戻ってこないことも、帝人は知っている。だから、今日。帝人はここに居た。ピアノが奏でるメロウなジャズが流れるこの喫茶店に。
「帝人くん、話って?」
彼の前には、コーヒーが置かれている。この暑いのにホットだった。一滴の不純物も落ちていない何もかもを飲み込むような黒は、湯気を立ち昇らせそこにあるだけで、帝人に汗を流させる。己と同じように汗をかいたグラスを手に取った。そして、舌の上で甘みと苦みが同時に走るその、不純物だらけのコーヒーを飲んだ。
「随分と、緊張しているみたいだねえ」
「ええ、まあ」
潤した筈の舌は無様にはりつき、しゃっくりが出かけたような妙な声が飛び出した。が、彼は嘲らない。まるでそれすらも愛おしいかのように、慈しみをたっぷり満たした、けれど甘さはひとかけらもない笑みを帝人に送ってみせた。
「さ、言ってごらん。聞いてあげるよ」
「はい、」
今だった。今言うべきだった。死んでしまえ、と。死んでしまえ、この野郎と。うつくしくも、清らかでもないその言葉を、帝人は舌に乗せるべきだった。
しかし、彼が発したのは死にかけた蛙が発するような、何の意味も持たない微かな唸り声だけだった。この瞬間、帝人はチャンスを失った。掴めた筈の、弱々しい糸はぷつりと音を立てて切れた。
「いざ、や、さん」
「分かってるよ、帝人くん」
伝えるべき言葉を何一つ口にしてはいない帝人に、彼はそう囁いた。気づけば、足の甲に何かが当たっている。その固い感触は徐々に上に昇っていき、器用に隙間の少ない帝人のズボンの裾に侵入していく。おそらく、靴なのだろう。固くざりざりとした感触が押し当てられている。その靴が店に入る前、ガムを踏み、汚れた水を踏み、池袋という街を闊歩してきたことを帝人はこの眼で見て、知っている。
「俺は全部分かっているから、帝人くん」
「……」
「それでもね、君は言うべきなんだよ、帝人くん。それが一番正しいことなんだ。さあ、言って。俺が全部聞いてあげる。君の口からこぼれる言葉一つ残らず聞いてあげるから」
さあ、帝人くん。
耳の奥でわんわんと彼の声が木霊する。その音は、帝人の声帯を震わせ、帝人がその言葉を吐き出すように強制する。彼の足はぐりぐりと力いっぱい靴底を押し当てていた。これも、強制の一種だろうか。ごくり、と、不純物の混じらない唾液が喉を通っていく。それは、コーヒーよりも遥かに簡単に帝人の喉を潤し、言葉を発することを容易とした。彼が今日掴むべきだった糸はもう切れてしまったが、代わりにもっと細く頼りない糸が今帝人の前に垂れ下がっている――そうして、彼はそれに掴まり、すっかりぶらさがっていた。
「僕は、愛しています」
「――うん」
「臨也さんのこと、」
「――分かってる」
「愛して、ます」
「――よく出来ました」
いつのまにかメロウなジャズは、低く音を垂れ流し続けるドラムスとトランペットの二重奏に変わっている。からん、と溶けはじめた氷がその小さな城を崩す。斜めになったストローが無意味に踊り、そして沈黙が訪れた。靴の侵攻は止まらず、帝人のそこそこ綺麗に磨いてきた学生靴はすっかり汚れていた。それでも、帝人はその足を引っこめることなく、脛に走る小さな痛みとを含めて享受していた。くちびるに、めいいっぱいの微笑みを浮かべながら。
作品名:そんな風に愛してごらん 作家名:ひら