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夜汽車

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電車に乗り込んだ頃には外は真っ暗だった。
 向かいの窓ガラスに映った渚が背もたれにぐったりと寄りかかっている。さすがに疲れたらしい。大会の帰り道。駅までのバスの中ではメンバーの中では元気に振舞っていたが、電車の揺れに身を任せて目を閉じると電池が切れたように動かなくなった。
 乗客はまばらで、スーツ姿の女性も、スポーツバッグを小脇に置いた青年もみんな静かに座っていた。
 乗り慣れた電車の外の景色は暗いというだけで別世界だ。宮沢賢治の物語みたいに夜空に飛び立ちそうな濃い闇の中、うっすらと山並の輪郭が見える。遠くの街の灯は星のように小さくて、メガネを外すと空と地の境目はどこにもなかった。夢の中みたいだ。
 カナヅチだったのに水泳で大会に出場して、予選を勝ち抜き泊まりがけで地方大会へ。だけど正式なメンバーとして登録されていながら、泳がなかった。他校生である凛のために。当然のように失格となったし、それ相応のお叱りも受けた。だけどみんなで、凛も自分も揃って笑顔で写真に収まって、シャッターを切ったマネージャーの江だって笑っていた。ほんの数カ月前、入学したばかりの自分に言っても信じないだろう。荒唐無稽な夢みたいな夏が終わった。
 バスが慣れ親しんだ岩鳶駅前に到着し、じわじわと疲労が手足に広がってくる。バスの中でも休んだつもりだったけれど、まだ緊張が残っていたらしい。渚と同じく口をつぐんでシートに体重を預けたけれど、目は閉じられなかった。寝て起きたら、自分は陸上部で、側には渚も誰も居ないかもしれない。
 ぼんやり正面の窓のふちを見つめていた。何か考えていたわけじゃない。考えこむだけの体力も残っていない。
 だけど、傍目には悩んでいるように見えたらしい。いつの間にか目を開けていた渚がそっと、彼にしては神妙な面持ちで呼んだ。
「怜ちゃん」
 いつもより大人びて見えた。子供っぽく見えるのは言動のせいだ。顔の作りも幼いけれど、疲れで陽気さが剥がれた今は歳相応に見える。
「どうしました」
 言いよどむような間があって、渚が背もたれを離れ背筋を伸ばした。
「ごめんね」
 眼鏡の奥で目を見開く。眠気が半分ぐらい吹っ飛んでいった。信じられない。
「それは、もしかして凛さんの件ですか」
「……他にないよね?」
「何言ってるんですか、行きのバスで無理やり変な味のお菓子を食べさせたり、僕が注文した唐揚げに勝手にレモン搾ったりしたでしょ!」
「えー、お菓子もレモン汁のかかった唐揚げも美味しいよ?」
「遙先輩たちもあのお菓子完全拒否だったじゃないですか!唐揚げだって、一つ目は何もかけずに味わってから……」
「そんなことこだわってたら社会に出てから大変だよ?」
「なんでそんな上からなんですか!同い年でしょうが!」
 肩で息を吐いて眼鏡のフレームを押し上げる。減らず口を叩いても渚は有耶無耶で流すつもりはないようで、居住まいを正したままの姿勢を保っていた。
「あれは、リレーのことは僕が言い出したことですよ。なんで謝るんですか」
「だって、怜ちゃんは凛ちゃんと関係なかったのに……」
「やめてください」
 ぴしゃりと言って遮ると、渚は大きな目をぱちくりさせた。
「関係大有りです。凛さんは渚くんたちの仲間で、渚くんたちは僕の仲間でしょう?」
 白いチームジャージを着た渚の胸を指差す。
「渚くんたちの問題は、」
 その指で同じジャージの自分の胸を叩いた。
「僕の問題です。そうやって仲間はずれにするのはやめてください」
 遙と真琴も同じジャージを着て一緒に大会に臨んだ、チームだ。同じコースを泳いでいなくても、一緒にプールサイドにいなくても仲間だ。
「渚くんたちと凛さんだけの問題にして、僕との間に線を引かれる方がショックです。僕は僕の仲間が困っていたから一緒に解決しただけです」
 水泳部に入部したのはリレーのメンバーとしてじゃない。そもそも、入部当時はどの泳法も習得していなかった。絶望的なカナヅチにも匙を投げずにみんな出来る限り教えてくれた。同じように、みんなのために出来る限りのことをした。
「怜ちゃん……」
 頷いてやると、子犬みたいに大きく頭を振ってパッと顔を上げた。
「ゴメン!前にも同じこと言われたのに、僕」
「ホントですよ」
 すっかりいつもの渚だった。やかましいけれどホッとする。
「そうか、そうだよね」
 低い屋根に阻まれて星空の見えない天井を見上げて何度も頷いている。晴れ晴れした横顔に満足して横で一緒に頷いていると、渚がぱっと振り向いた。
「じゃあ怜ちゃんも遠慮なく頼ってね!」
「……今のところ特に解決して欲しいことはありません」
 それに、あまりにもイキイキとした渚に何か頼んだら期待しない何かが返ってきそうだ。頼まなくても何かをもたらしそうである。
「そんな遠慮しないで」
「ありませんったらありません」
「えー?何か困ってない?」
「強いて言うなら渚くんに困らせられることが一番多いです!」
 ついつい大きな声が出て、離れた席に座る乗客がチラリと視線を寄越した。咳払いで振り払う。
 電車は田畑を抜け、窓の外を街の灯が流れていく。ポケットの中で携帯がバイブした。こっそり開く。家に着いたらしい真琴からの労いと次の部活のスケジュールについてのメールだった。
 まぶたを閉じる。
『次は必ず一緒に』
 頭上を飛び越えて滑らかに水に身を委ね誰も寄せ付けない速さで泳ぐ遙を、仲間と一緒にゴールで待つキラキラした景色が見える。目を開けば同じく真琴からのメールを受け取った渚がにっこり微笑んだ。
 駅が近づくにつれて眠ったようだった乗客たちが動き出す。初めての競泳、初めての大会が終わる。開いたドアの向こうには水しぶきのようにキラキラと星がまたたいていた。
作品名:夜汽車 作家名:3丁目