名前を呼べー呼びたい
しおは、すたすたと前を歩く背中に呼びかけた。
「違うだろ」
途端に返ってきたのは鋭い否定の声。
振り返りざまにじろりと睨まれ、背筋がすーっと寒くなる。
わたし何か間違えた?と自問するが、ジャックというのは間違えようもない、このふてぶてしさを全身からにじみ出した男の名称である。
「えっ?え?違う?な、なな…何が?…」
それでも自信が持てなくて、あわあわとうろたえながら両手を意味なく上下させてしまう。
自分でも何をやっているのかと思うが、頭が半分パニクってどうしたらいいのかわからない。
すると盛大なため息が聞こえて、ひっと動きを止めた。
かと思うと、一気に距離が詰められ、ずい、と顔が近づいた。
反射的に目を見開く。心臓が大きく鳴った。
近すぎ。
アッシュブロンドの髪が揺れて元の位置に納まるのが見えた。
長く伸びた前髪に隠されて左目は見えない。
もう片方の右目はよく見ると少し垂れ目がちだ。
なのに鋭い眼光のせいで、いつも剣呑な雰囲気を漂わせている。
眉はというと目とは逆につり上がっていて、余計恐い人みたいに見えてしまう。
白人種にしてもやけに白い肌。
見た目の印象は一言で言えばおっかない、だ。
でも。
目の前の、皮肉が張り付いたような口元がへの字を描いた。
「アダム、だ」
叱られるときみたいな恐い表情。
「ほれ、言ってみろ」
無情に突きつけられる要求。
そんなの急に無理ー!なんて言おうものなら更に怒られるのは目に見えている。
それに、呼んでみたい気持ちだってちゃんとある。
ものすごく、とてつもなく呼んでみたい。
初めて本名を聞いた時とくん、と心臓が鳴った時からいつか呼べたらいいなって思ってた。
いたけれど。
「そ…そんな急に言われても…」
いざとなると緊張して口がうまく動いてくれない。
おまけにお得意のコミュ障が顔を出して邪魔をする。
頑張ってみたが、こわばった口元からは意味のない声が漏れるだけ。
「……あ…あー…あああ」
もはや名前を呼ぼうとしているのか取り乱しているだけなのかわからない。
これだけ慌てているというのに目の前の張本人は涼しい顔だ。
ずるい。
自分だけしれっと名前を呼んでおいて。
デリカシーのない相手と違って、こっちがどれだけ恥ずかしくて大変な思いをしてるのか、わかっているんだろうか。
人の気も知らないで…と膨れっ面で相手の顔を見上げてみる。
と、垂れ目の中の鋭い眼光がふっと緩んだ。
ほんのたまにしか見せない、優しい光が瞳に浮かぶ。
思わず見とれたのもつかの間
「バーカ」
「ばっ、バカとは何よ、バカとはー!」
飛び出してきた思いもよらない罵倒にかっとなる。
ここに来てよりにもよってバカ呼ばわりとは!
あんまりだ。
口のよく回るこの男にどうやって反撃しようかと言葉を探す。
そこに
「…しょーがねーな」
ふいに厳しさの和らいだ声が聞こえた。
ふと見れば、皮肉にゆがんでいた口元が笑いの形に緩んでいた。
「普通に呼べばいいんだよ」
優しい声。
「しお」
じっと見つめる視線。無言の促し。
思わずまばたきするのも忘れ、硬直した。
興奮と恥ずかしさで体が震える。
「あ…アああー、ア…だっ…」
顔が熱くて頭がぐるぐるして心臓は壊れそうに早鐘を打って、今にも倒れそうになる。
ダメだ鼻から何か飛び出そう…と思ったところで、心底あきれた声がした。
「なーに壊れたレコーダーみたいになってんだ、お前」
そのあと、盛大なため息が聞こえてついでに小さな舌打ちの音が響いた。
「ったく」
やれやれと言いたそうな声と同時に、更に顔が近づく気配がした。
頭がこれ以上ないくらい沸騰した。心臓はもう破裂寸前みたい。
手足が震えて止まらない。
もう限界だ。
思わず目を閉じた。
けれど気配は予想していた地点を通り過ぎる。
ホッとしたのもつかの間。
ふわりと空気が頬を撫でて、次いで耳元に吐息がかかった。
「ひっ」
思わず口元から悲鳴のような空気が漏れる。
「言ってみろ」
耳朶に直接届いた声が近すぎる。
かぁ、と顔が熱くなった。
更にたたみかけるように
「アダム」
と、低くて熱い呟きが聞こえた。
鼓膜を揺らした響きに全身がびくりと跳ねる。
蒸発しそうなほど頭が沸騰した。
「なっ…なっ、ななな…」
声にならない声であわあわと慌てている間に、急速に体温は離れて行った。
ほっと肩から力が抜けるのと同時に、もうちょっとだけと心の中で小さく声が響く。
名残惜しい気持ちで視線を上げた。
するといつの間にか真正面に相手の顔があって、再び動けなくなった。
しばし、至近距離で見つめ合う。
息の詰まりそうな時間はほんの一瞬。
「しょーがねーな、まったく」
折れたのは相手の方だった。
その顔に浮かんだ表情に、何だか申し訳なくなって小さく縮こまる。
「…ゴ…ごめん」
「ま、いいさ」
意外とあっさり放免されて、えっと顔を上げる。
「そのうち呼べるようになっとけよ」
そう言い置いて、なんの未練もないように背中を向けた相手をしばしポカンとして見送った。
「ちょっ…ちょっとぉー!」
これだけ人のことを振り回しといてそれ?
言葉を続けようとして大事なことを思い出した。
つい振り回されて忘れる所だった。
「あっ!そうだ、待ってよ!」
「なんだよ」
めんどくさそうに振り返った相手に追いすがる。
「伝言!頼まれてたんだった!休憩は終わりで待機任務に移行だって」
「な!早くそれを言え!」
叱るような声と同時に、緩んでいた相手の気配が急速に引き締まるのを感じた。
「行くぞ」
既に臨戦態勢に近い厳しい声音で言い置くと、相手はさっさと自分を追い越して行く。
変わり身の早さにあっけにとられた後、慌てて後を追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
けれど、足の長さが違うのであっという間に背中が遠くなってしまう。
長い足を止めもせず叱咤の声が響く。
「早くしろ!置いてくぞ!」
でも、と、しおは一瞬立ち止まった。
そう言いながらも、遅れたらちゃんと待っていてくれるのを知っているから。
深呼吸してから小さく口を動かす。
「おい、何一人でニヤニヤしてんだ!さっさとしろ!」
叱る声にめげることなく、しおは元気よく声を返した。
「了解!」
そして、足を止めて待っている背中に向かって思い切り走り出した。
作品名:名前を呼べー呼びたい 作家名:股引二号