学パロ時京・弓道
これが弓道部員ならまた違ったのだろうが、京一郎はあくまで部外者だ。弓道場の場外、フェンスで隔てられた場所だからそれほど気を使う必要もないはずなのに、自然と呼吸は密やかになる。
視線の先、数人並んだ射手の真中あたり、そこで時雨が矢を右手に取る。左手には弓を持ち、その拳を腰に置く動作には淀みがない。
すう、と一呼吸して、的に正対し両足の位置を定める。軽く開かれた爪先は一度定められれば、もう動くことはない。伸びた若木のように微動だにしない体幹、そこから両腕が下ろされる時には、同時に弓に矢が番えられている。しなう弓はきりきりと微かな軋みを立てるけれど、時雨の体には全く余計な力みがなかった。まるで元からそのような形であったかのように。
何秒かの、引分けの呼吸。ほんの一瞬にも、永遠にも思えるような静止の時。
びん、と空気を裂きながら矢が放たれる。その先は惑わず、的の中心を真っ直ぐに射抜いていた。
「わあ…!」
弓道場の周りを囲み、試合を見学していたのは京一郎一人ではない。明らかに普段弓道などに縁の無さそうな女子学生が何人もそこには詰めかけていた。
場の空気を読まず大声を出すような者こそいなかったが、明らかに彼女らの空気は時雨の一射を目にして華やいだものに変わっている。
「時雨先輩、格好いいよねえ!でも弓道部員てわけじゃないんだよね?」
「違う違う、剣道部。試合の時だけ、たまに人数合わせで手伝うんだって。でも弓道部員より上手いみたいだよ」
「剣道だと顔見えないし。弓道部に入ってくれたらいいのにー」
声は潜めていても、浮ついた囁きが耳に入ってくる。勝手なことを――と軽く苛ついた気持ちに囚われた時、自分の射を終えた時雨がふとこちらに視線を移した。
まだ残心の構えの名残を残した、真剣な目。それが京一郎の姿を認め、同時にふっと緩んで笑みの形になった。
周囲の女子が、きゃあと控えめながら歓声を上げる。今こっち見て笑ったよね?やだかっこいい――
その声を聞いて、思わず声が出そうになる。違うよ。今のは僕に向けた笑いだから。時雨が笑いかけたのは僕だ、君たちじゃない。
そんなことを実際に声に出して言うわけもないけれど、心の中がざわざわと波立つ。
京一郎は、あらかじめ買っておいた飲み物を、ごそごそと鞄の中から取り出した。それを手に、試合の終わった弓道場の中へ足と入っていく。
弓道部員に交じり、控室へと戻る時雨の姿はすぐに見つかった。。射を終えてもその袴姿に乱れはなく、落ち着いた立ち居振る舞いはいつもとは異なる雰囲気を漂わせている。
僕の知っている時雨とは違う。あのネクタイを緩く結んで、暑いからと袖を捲っているいつもの時雨とは――
「お、京一郎」
声をかけられて、ぼんやりしていたことに気が付く。取り繕うように飲み物を持ち直し、時雨に差し出した。
「お疲れ様。全射正中おめでとう」
「おう」
にっ、と嬉しそうに時雨が破顔する。先ほどの真剣な眼差しが嘘のような、人好きのする明るい笑顔。
「ありがとな。あっち行って飲もうぜ」
「うん」
がやがやと人の多い控室を抜け、弓道場の裏手に出る。
そのあたりには選手や応援の生徒の姿はなく、二人で座り込んでペットボトルのお茶を飲むには十分なゆとりがあった。
「あー、美味い。試合中は水分補給もできないからな。悪いな、買ってこさせて」
「ううん」
いかにも美味い、という顔をしてお茶を飲み下す時雨を見て、自然と笑いがこぼれる。
さっきのあの真剣な顔が、嘘みたいだな。
試合の時のことを思い出すと同時に、あの女子学生たちの声が耳に蘇ってきた。ずしん、と妙に胸が重くなる。
時雨先輩、弓道部だったらいいのにね?
「…ねえ、時雨」
「んー?」
京一郎は、横に座り込んでいる時雨に向き直る。触れそうで触れない肩の間で、空気がすこしだけ動いた。
「時雨は、剣道部辞めたりしないよね」
「へ?」
時雨の目が、きょとんと丸められる。
「剣道部辞めないよね?弓道部に行ったりしないよね」
「…何言ってんだ、お前。当たり前だろ」
ぷっ、と吹き出した時雨が、その掌を京一郎の頭にのせた。ぽんぽんと撫でられる仕草は、いつもなら子ども扱いされているようで跳ね除けるものだったけれど、何故か今はそうする気にもならない。乗せられた掌をそのままに、京一郎はなお言葉を継いだ。
「なんとなく…時雨がこのまま、弓道部の部員になっちゃうんじゃないかって」
「ばーか。お前だって知ってるだろ?試合の時だけの手伝いだって」
「馬鹿って言うなよ!僕は…時雨と剣道一緒にやりたいんだ…でも不安になって…だって、だってさ、さっきの時雨があんまり」
…かっこよかったから。
最後の一言は、ほとんど囁きのようになった。聞こえなくてもいい。むしろ口の中だけで消えてしまえばいい。そんな風に思いながら口にした言葉。
自分の言いたいことがなんなのか、よく分からない。混乱した気持ちで俯いた京一郎の顎を、時雨の手が唐突に掬い上げた。そのまま顔が上に向けられる。
「…俺、かっこよかったか?」
「…うん」
目の前に、時雨の顔がある。つい先ほど、的に正対していた時のような真剣な目がきらきらと光っている。
目が、離せない。
「それで、不安になった?…何で」
「応援の女の子たちが…時雨先輩、かっこいいって…弓道部に入っちゃえばいいのに、って言ってて」
また、時雨が笑う。今度はどこか嬉しそうな、くすぐったそうな顔で。
「ばーか。ていうか、お前、それって、焼きも…」
「?…何」
「…まあ、いいや。ともかく。俺は弓道部に入ったりしない。お前と一緒に剣道これからもやってく。絶対に」
「本当?」
「本当だ」
瞳をきらめかせたまま、時雨の顔が近づいてくる。
鼻先が軽く触れ、一瞬なのにその熱にくらりと酔う。
吐息が絡み、そのまま唇が唇に触れそうに――
「おーい、時雨?どこ行ったー?次の試合始まるぞー」
ばっ、と時雨が体を離した。お、おう、今行く、と頼りない声で返事を返す様子に、京一郎は思わず吹き出してしまう。
「試合だね。…いってらっしゃい」
「…おう」
いかにも未練がましい顔で、時雨が京一郎を見つめてくる。その顔がまたおかしくて、笑いがこみ上げてきた。
「なんなんだよ、もう…。おい、ちゃんと待ってろよ?一緒に帰るんだからな?」
「分かってるよ。次も頑張って」
「…ああ」
ほんとに待ってろよ。そう言い残して、射場に向かう時雨の後ろ姿をじっと見つめる。ああ、やっぱり格好いいな。
京一郎は立ち上がり、ぽんぽんと埃を払って応援のために再び弓道場の外へと足を向けた。
先ほど唇を掠めた体温を、ほんの少し惜しいと思いながら。