un poco più vicino
彼に気配を悟られる事の無いぎりぎりの場所で辛うじて一歩を踏みとどまる。
呼吸すら憚られる清んだ気配の中で、彼の横顔の美しさに我を忘れた。
間もなく夜も明けようという時刻、彼は一体いつから此処にいたのだろうか、細い身体はぴくりとも動かない。
時折吹き抜けていく風に揺れる木々を透り越して、何処か遠くを見ているようなその表情にはいつもの微笑など
欠片も見当たらない。何も無い。うつろな昏い色をした瞳にまるで知らない人間を見るような心持ちで息を詰め
た。傍に過ごすようになって10年の間、彼の容姿は全く変わらなかった。彼はいつまでも出会った時のままの姿
で、その瞳の静謐な光ごと、好きになった。少女の憧れがあまやかな痛みに変わるまでさほど時間はかからなか
ったが、それと時を同じくして彼の内側に潜む闇に気付くようになった。うつろの中にあるのはとても深い闇で、
其処に近づく事は誰にも出来ない。きっと彼は空ろを塞ぐ事など考えもしない。そうして、ずっと永い間を生き
てきたのだろう。それがどれほどの孤独なのか、何が彼をそうしたのか、考えずにはいられないけれど、知った
ところでどうなるものでもない。彼の孤独は彼だけのもので、彼はその場所を誰にも許そうとはしないのだから。
喉に熱いものが込み上げてくるのがわかった。ここ何日か前から続く鉄錆の匂いに眉を潜め、袖口で口元を覆う。
何とか衝動をやり過ごし、再び顔を上げる。横顔の瞳がすっと狭められ、彼がこちらを向いた。蒼色の目が丸く
なる。
「わあ、カテリーナさん!どうしたんですか、そんな薄着で外に出たりしたら駄目でしょう!」
素っ頓狂な声をあげて駆け寄ってきた彼に、思わず笑いが零れる。
「そうね、流石に少し寒いわね」
「夜風は身体に悪いんですからね、そうだ、これかけて下さい、ぺらぺらだけど無いよりはマシです」
そう言われて肩にふわり、と僧衣を掛けられた。さ、帰りましょうと促されて、踵を返して一歩を踏み出す。
「もうすぐ夜明けね」
「…?そうですねえ、まだ暗いですけど」
どうかしたんですか、と聴き返してくる彼を微笑みで受け流し、幾重にも垂れ込める薄い紗のような雲の向こう
側にある光を思って静かに瞼を閉じた。
作品名:un poco più vicino 作家名:砂田 睦月