ライフゴーズオン
「私も、流子から話は聞いている。お前の中に潜り込んだ時の話もな」
鳳凰丸は両手を動かし腹部の傷口に触れようとしたが、長く動かしていなかった体は俄かには思い通りに動かせなかった。
「原初生命戦維を全て切られた後、お前は泣いていたそうだ。お前とお母様を繋ぐ、最後の糸が無くなってしまったと」
皐月や流子、縫と違って鳳凰丸には羅暁の遺伝子は入っていない。縫が神衣を着ることが叶わないと判明した以降は様々な条件の下で実験が重ねられたが、鳳凰丸以外の実験体は全て出生前に死亡した。
「五歳の時にお母様を敵と認定した私や生後すぐに捨てられた流子と違って、お前や縫はずっと近くにいたからお母様が世界の総てだったのだろう。無理もない」
「ええ、私にとって世界とは羅暁様です。羅暁様のいない世界など私には無に等しい」
だから、殺してほしかったのに。羅暁様の血をひき、羅暁様の最後を見届けたあの少女に。声に出さない鳳凰丸の思いを知ってか知らずか、皐月は凛とした声で答えた。
「もうお母様はいない。しかし世界は存在し、朝はやってくるのだ。お前の中の生命戦維は流子に切られ全て死んだ。ただの人間の鳳凰丸礼として、新しい世界を生きてみたらどうだ」
「あたらしい、せかい」
新しい世界。きらきらとした美しい語感。多くの人が希望を抱くであろう言葉だったが、鳳凰丸には視界いっぱいにただただ広がる真っ白な空間しか想像できなかった。これまでの羅暁がいた虹色に輝くまばゆい世界とは程遠い、光も吸い込む真っ白な闇。
「この世界は無ではない。雑多で、ごちゃごちゃして、わけのわからないもので満ちているのだ。そのわけのわからないものをひとつずつ手に取って選ぶことができる。それが人間だ」
皐月の表情を直視できず目を背けた鳳凰丸の耳に小鳥のさえずりが届いた。それにひかれて窓辺を見た鳳凰丸の目に、陽光に照らされ輝くたくさんの朝露、それらを葉に載せた緑の庭木が映った。
「なんでもない朝なんですね」
「ん?」
窓から顔を戻して天井を眺めた鳳凰丸は口角を上げて微笑みに似たような表情を作った。目尻に滲んだものは朝露ではなかった。
「何もかも失ってなんでもない自分しかなくなって、死ぬことさえできないのに未来を与えられて、それでも世界にとっては変わらない、なんでもない朝なんですね」
「ああ、そうだ」
目尻に滲んだ鳳凰丸の涙は溢れ一筋の流れを作った。皐月は鳳凰丸の涙を指で拭った。
「今日だけは特別に拭いてやる。腕が上がるようになったら、お前の涙はお前が拭け。遺伝子は違えど、お前もまたお母様の娘のようなもの。私も流子も自分の道を歩む。お前が出来ない道理はない」
皐月は椅子から立ち上がり、まっすぐ鳳凰丸を見据えた。
「もしすぐに道が見つからないのならば、私の下で働け。REVOCS社もお母様がここまで育てたものだ。生命戦維があろうとなかろうと、その事実は変わらない。しかしREVOCS社は生まれ変わらねばならぬ。人材は一朝一夕には育たん。お前は新しいREVOCS社を育てる礎のひとつとなれ。お母様が築き上げた城をお前の手で支えろ」
「皐月様……!」
「まずは体を治せ。会社に戻ったら容赦なく働かせるからな。私は人遣いが荒いのだ」
ふふ、と口元だけで笑い、皐月は部屋の外へと退出した。
「そうか」
残された鳳凰丸は息を吐くように呟いた。
『羅暁様が残したものは生命戦維だけではなかった。まだ私と羅暁様を結ぶよすがはこの世界に存在しているのだ』
そう思った瞬間、鳳凰丸の世界に広がっていた茫漠たる白い闇の端に光が射した。微かながらも闇に吸い込まれずに輝く光は、先程窓越しに見た陽光にどこか似ていた。