夜に想ふ。
とぷん、と、まるで溶け込むような黒。
そいつは危なかしい足取りで歩む。ゆらゆら、ゆらり。それはまるで平均台の上を歩いているようにも見えて、錯覚。そいつの華奢な体躯がしなやかに揺れている。男のくせにやたらに細っこくて、く、と力を込めたら折れてしまいそうなほど。それなのに骨張った肩甲骨の膨らみに、どうしてかどきりとする。骨の、形。それはゆるくカーブを描いて、真っ黒なコートに薄く影をつける。ふわ、とその端が舞う。夜風が吹いたらしく、そいつの黒く細い髪の毛をしゃらしゃらとさざめかせては踊ってゆく。それは黒い筈なのに、何故だかぼんやりと光を纏っていて、きれいだ。しゃらり、しゃらり、しゃらり。雲に隠れていた月がひょっこりと顔を出して、そいつを仄かに照らす。その様があんまりにも、よくわからない、不思議な雰囲気を放っていたので、俺はそれから視線を逸らせなかった。そいつは、くる。と振り向いた。
ねえ。猫の鳴くみたいなこえで、そいつは問うた。なんだと応えると、そいつは心底しあわせそうなカオをしながら、うーうん、なんでもない。と、へらり呟いた。次いで、外す視線。そして月に向けられたその目を、何故か真っ直ぐ見たいと思った。じい、と、何かに重ねるように、ただただ見つめるその目。それはまた月光をきらきらと反射させ、遠目からでも煌めいていることが判る。ふいに、そいつがゆったりと、緩慢な動作で右手を伸ばした。不気味な程に生白いそれは、く、と空を切っては降下する。何回かそれを繰り返して、それから自身のそれをじいと眺める。何がしたいのか判らずに、その様子をぼうと見ていると、そいつが急にくるりとこちらを向いた。泣きそうな、瞳だった。揺れる綺麗なそれから、俺は目が離せなかった。黒く、どこまでも黒く、それなのに奥に光を灯す。泪が滲んでいる所為か、ゆらゆらと揺れていて、すごく、きれいだ。ねえ、掴めない、よ。弱々しく掠れたこえで、そいつはそう告げた。
え?掴めや、しないよ。なに、言ってんだ?つきが。尚も泣きそうなこえで、そいつはふらふらと、危なかしく。屋上のフェンスはもうずっと奥にある筈なのに、何故か無性に近く感じて。そいつがそのままふらりと、憶測を誤って落っこちてしまうんじゃないか、と、怖くて。堪らず駆け寄って、その折れそうに細い身体を抱き込んだ。焦ってはいたけれど、ぜったいに、傷だけはつけたくなくて、最大限に気を遣って、優しく、優しく。そいつは驚いたように、両の目をまんまるうく、おっきく開いて、そして縋るように俺の服を握り締めた。それなりに力強く、皺の跡がくっきりと残るくらいだったのだけれど、寧ろそのまま、残ってしまえばいいと、思った。そいつは長らくぎゅうと掴んだままだった。そして唐突に、ふ、と、離して、揺れた瞳のまま、俺の目をしっかと見つめながら、ふわり。と、薄く笑った。
つきが、きれいですね。
(それはあいらぶゆー)