急いても若葉のころ
鼻から煙を押しだして、伊達はカンと煙管を煙草盆に打ちつけた。黒く磨きたてられた濡れ縁に足を伸ばしている。部屋の中に目を向ければ惨憺たる有様である。紙の束でもはや青い畳は見えないし、墨の乾いた筆が放り投げられている。今、伊達の尻の下にも一枚書類が敷きこまれている。こうして濡れ縁にまで弾き飛ばされてしまったものなので、たいしたものではないだろうとたかをくくった
庭の、植え込みのところに男が一人膝を突いている。しのびである。赤い髪を鉢金からのぞかせている。このしのびを使役している男と伊達は懇意で、時折こうした文のやりとりをする。最初に文を寄越したのはもちろんあの男で、そのときの字の汚さといったら目も当てられなかった。みみずののたくったような字である。そのときの返しの文では、伊達が愛用していた硯も一緒にしてこのしのびに持たせた。精進するようにと、そう書き添えた。伊達のその言葉はきちんと伝わったのだろう。その次の文はなんとか読める字であった。あのときの旦那の顔と言ったら、目もあてられなかったね、紙をあるだけ持ってこいなんて言って、しまいにゃ障子紙にも字の練習をしだす始末で……。
その練習の紙は残っているか、残っているならこっそり持ち出してこい。そのとき伊達はしのびにそう言って寄越して、その顔を苦くさせたものだった。彼が次の機会に懐から取り出してきたのは、墨で真っ黒に塗りつぶされた障子紙である。陽に透かせてもなにが書いてあるのかちっとも判らない。伊達はふ、と笑い、それをきちんと折りたたんでそれまでに真田の寄越したのと一緒に文箱にしまった。
そうして、奥州の冬も足音遠くなったこの時期になってまた真田から文がきた。青葉瑞々しい桜の枝にくくりつけられている。今までそういう真似をしてこなかったくせに、どういう心境の変化だろうと思う。煙草を喫みながら文を開くと、使いで近く国境いの禅寺に逗留すると書いてあった。
……それで?書いてあるでしょう。字が汚くて読めねえ。今更なに言ってんのさ、読めるでしょう、俺でも読めたのに。さらりとひでえこと言うな。蛇腹に折られた紙を陽に透かす。まだ細工のある料紙を使うという頭はないらしい。色だけは鮮やかな墨の色が紙の海にうねった。首をひねる。紙から視線を庭の男にずらす。彼は伊達と視線を合わさぬようそっぽを向いている。そうしてまた目で墨の蛇を追った。……最後の一文だけ、真実読めない。
顎をてのひらで擦り、腹の中の煙をすっかり追い出してしまう。文を丁寧に折って懐にしまうと、縁側を蹴った。畳の上に転がっている筆を拾い上げて墨で湿らせる。適当な紙を机に敷いた。そうして庭にうずくまっている男に、適当に花をつけている枝を手折って来いと叫ぶ。やがて机の上にぽとりと落とされたのは、桜の花を二つつけた枝であった。書き上げた文をそこにくくりつけ、畳の上を滑らせる。OK, こいつがしおれないうちに持って行けよ。しのびは、自分が持って寄越したくせに心底嫌そうな顔をして姿を消した。どうしようもないことだ。伊達の庭には今、花をつけているのは桜しかない。
盆に置いたままの煙管を持ちあげて新しく葉を詰めた。ゆっくりと煙を吸い、吐き出しとしている間、さてどうやって抜け出す口実を作ろうかと伊達は考えている。
やっぱり読めないって。桜の枝に結ばれた文を読んでいる真田の顔が、だんだんと渋い顔になってゆくので思わず猿飛はそう漏らしてしまった。小さな禅寺である。ここの禅師の写経を持ち帰るのがこのたび真田が仰せつかったお役目で、もうそれは昨日済んでいる。二三日逗留して甲斐に戻ることになるだろう。禅師と年老いた寺男しかいない寺なので、今日は朝から真田は薪割りに、寺の修繕にと忙しい。
真田の返事はない。気難しい顔で文をにらんだかと思うと、懐にギュッとそれを押しこんでまた斧に手をかけた。カン、と乾いたいい音をさせて薪が割れる。桜の枝はその薪の山の、てっぺんにそっと置かれていた。はなびらは幸いまだしおれてはいない。しかし今日のこの気温は春にしては少し高い。片肌脱いだ真田の背中にはうっすらと汗が浮いた。
……無視しないでよ、なんて書いてあったの? カン、という音、息をつく音。猿飛は真田の様子をうかがいながらも手元に集中する。寺男の孫だという男の子に、竹蜻蛉を作ってやる約束をしていた。竹を薄く薄く刃で削いでいると、読めぬと書いてあった、そう言う真田の声がする。ああ、やっぱり。やっぱりとはなんだ、お前は読めたろう、どうして伝えなんだ。……勘弁してよ、逢引のお誘いの文にそこまでする義理はないね。返事がない。小刀を扱っていた手元から視線を上げると、びっくりした顔の真田が猿飛を真正面にとらえた。あ、逢引ではない! そうして、顔を赤くさせたり青くさせたりしている。あの文面で、そう捉えないほうがおかしいと猿飛は思う。竹の屑をふうと吹き払い、そのはねの薄さを確かめる。……それで、竜の旦那は来るって?
今度の斧の音は少し鈍かった。顔を上げると、真田は割り損じた薪を横にのけている。だから、逢引ではないと……。新しく載せた薪にコンコンと斧を打ちつけた。その渋面に思わず猿飛は笑ってしまう。来るんだ? 今度は綺麗な音がした。額にうっすらとかいた汗を拭い、真田は懐の、文を押しこんだあたりを手で押さえている。来るとは書いてなかったが、……その。斧を持ったてのひらを開いたり閉じたりと忙しない。なんとも煮え切らない。猿飛は、これは長くなりそうだと決めつけて、手元の竹蜻蛉に集中し始める。しばらく薪を割る音と、竹を削る音が庭に響いた。遠くで山鳥が鳴いている。晩春の、好い日である。ぬくもった空気が穏やかに流れる。その空気が緩やかに振動するのを猿飛の耳は拾ってしまう。薪割りの音のかげにひそむ、真田のひとりごとであろう。読めないから直接言えなどと……。ちらりと視線をやると、真田はやはり渋面である。その頬が陽にさらされて赤く照っている。