色褪せた月
いつも、見ていた月だ。ついこの前までは、この草原を離れ、湖畔の古城で見上げていたけれども、その美しさにいささかの翳りも異変も無い。
……無い、はずなのに。
(それでも、あんまり綺麗に見えないような気がする)
あわただしい毎日の中、それでも暇を見つけては星空や月を眺めていたときに比べて、なんだか色褪せて見えるのだ。もっときらきらと、綺麗に輝いていたはずだったのに……どこか、くすんでみえる。それはきっと、雲のせいばかりではないはずだ。ビュッデヒュッケ城だって、いつでも晴天だったわけではないのだから。
だとすると、何が理由だろうか。
街の明かりは往々にして夜空を邪魔するのだと聞いたことはあるが、ビュッデヒュッケ城に比べればこちらのほうがまだ真の闇に閉ざされている。良いか悪いかはさておいて、天然の光源を打ち消すような、無粋な人工の光には乏しい。草原のところどころから響く虫の音だって、ビュッデヒュッケ城のいつまで続くとも知れない酒盛りの騒ぎに比べれば、随分と控えめだ。だから本当は、ここから見る星空のほうが、くっきりと見えていなければおかしいのだ。
「……」
ふ、とこぼした吐息が頼りなげに、夜空へ溶け込んでゆく。
本当は理由をあげつらうまでもなく、知っているのだ。
淋しいと、駄々をこねるほど子供ではない。頻繁に手紙のやり取りはしているし、きっと彼女は彼女でこの月を見上げているかもしれない。
(……けれど、隣に居ない)
寒いときは毛布を分け合って。城の屋上で横になって、一緒に夜空を見上げていた彼女は、自分の隣には今は居ない。視線を天から地面に下ろしても、月光を紡いだ銀の髪も水晶より透明な菫の瞳も、ほんの少しだけ垣間見える花のような微笑も、見ることはできない。
「俺、自分でもっと図太い人間だと思ってたのになぁ……」
隣に彼女が居ないというただそれだけで、満月でさえも色褪せて見えてしまうなんて、随分と繊細になってしまったものだ。軟弱になったとは思うけれど、きっとそれは悪い変化でもないのだろう。
それだけ、心を預けてきている証だと思えば。
さらさらと、前髪を風に遊ばせて静かに双眸を閉ざす。しばらくしてすっと開けられた瞳には、凛然とした決意が宿っていた。
「明日から、がんばらなきゃね」
淋しいと思うのならば、手を伸ばせばいい。隣に居ないのならば、迎えに行けばいい。
そのために、今はなすべきことを。
「……よし」
気合を入れて、とりあえず家へと向かう。まずは母に逃げ出したことを謝って、それからきっとこってり説教されて。明日からはまじめに、次期村長として本とにらめっこすることになるに違いない。今日まではそれが嫌で、何かと口実をつけて逃げ出していたのだから、不思議がられるだろうけれども。
母の跡を継ぐ予定は無い。真の紋章を宿し、人ではなくなったものが村を纏めるというのはどこか不自然だし、何よりもクリスとの約束がある。けれども、既に十分「大人」であるクリスとともに歩くのであれば、少なくとも中身だけは大人に負けないようにしておきたかった。
もう一度だけ、振り返って空を見上げる。薄く金色に輝く月は、いつもと同じように綺麗であることには間違いないけれども、それでもやっぱりどこかくすんで見える。
「がんばるからね」
いつか、色褪せない月を一緒に見るために。