手 Side Kadomatsu
今は占領地であるシンガポール。熱帯特有のこの気候も、21世紀とはどこか違うものなのだろうか。
―― 手 Side Kadomatsu ――
日本人街というものをこの目で見るのは初めてだった。横浜などにある中華街と同じようなものだろうかと思ったが、占領地という言葉を背景に見てみれば、もっと殺伐したなにかを感じるようだ。
「ここはあなたの知るものとは、違う世界違う歴史になっていく…」
そう言ったこの男を、衝動のままに殴ってしまった。
自分たちがやってきたあの21世紀にこの場所がつながっていない。存在すらも否定されたようで、勝手に身体が動いた。
後に残るこぶしの痛み。そして殴り返したりせず微笑む表情で、この男もまた存在があやふやなのだということを実感した。
俺の手を取り、転ばせるという強かさを見せながらも、寄る辺をなくしているのだ。
わざわざ殴られてみせてまで、存在を確かめさせた。そして自分も同じなのだと。
だが、違う。俺が助けなければこんな立場に立つこともなかったのだ。この手で、寄る辺をなくした人間を作ってしまった。
なぜ助けたと、責めたって構わない。むしろそうされるべきなのだ。
自分の後ろに続くこの男は、そうして微笑む優しさと強さでいつか自分を滅ぼしてしまうような気がした。
痛みは、存在を感じさせる最も有効な手段だと、こともなげに言う。
―――ああ、と思った。この男は、草加拓海という人間は、あの海から俺が助けた時から、自分の存在に疑問を抱き続けていたのだ。
手を伸ばし、その身体を引き寄せる。細い肩だった。この時代の人間だからという以上に、力を加えれば壊れてしまうじゃないかと思わせるような。
軍人という肩書きには似合わぬほどあまりにも儚げで、生きているという事実すら忘れさせるような。
そんな儚いほどの存在が、痛みで己の存在を確かめている。
震えそうになるのは雨のせいではない。怖いのだ。怖くてたまらない。
この身体も、その澄んだ目も、雨音に紛れるかすかな声も、全部、全部消えてなくなりそうで。
「……もう、痛みなんかで、確かめるな」
殴ったのは俺だ。なんて勝手な男だろう。だが、そんな風にしか存在を確かめられないと思うのは今夜で最後だ。
草加拓海はこうして腕の中にいる。俺も、お前も此処にいる。だから決して消えたりするな。
お願いだから。
俺はまだ、愛してるって言ってないんだ。
作品名:手 Side Kadomatsu 作家名:東雲