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月の涙

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初めて持った包丁はどこの国でも見かける片手包丁ではなく、この国、イタリア独特の両手包丁だった。
 弧を描いた刃の両端に取っ手がついていて、それをまな板の上で左右に動かすことで上手くみじん切りが出来る。
 刃渡りはさほど大きくなく、ボクの両手の親指をくっつけて広げたほどの大きさだった。父の大きな手に握ると小さく見えたほどだ。
 だけどまだ小さなボクらが握ればそれなりに大きかった。先に持たされた兄がおそるおそる柄を握り、パッと手を開いてはまた握った。
「刃をまっすぐにまな板に当てるんだ。そう。両手を離すんじゃないぞ」
 父がバジルを無造作に掴んでまな板に置いた。そして包丁の柄を掴んだ兄の手を上から握り、ゆっくりと左右に動かし始めた。シーソーみたいに半月が揺れるたび、緑色の刃が細かく刻まれてバジルの甘い香りが広がった。これが食べ慣れたジェノバペーストになるのだとすぐにわかった。
 ピカピカの銀色の月がユラユラ揺れる。窓辺に飾っているお気に入りの振り子のおもちゃみたいだ。
 途中で電話が鳴って、父が離れていった。兄は自分の意志で包丁を動かし続け、まな板の上のバジルはほとんど原型をとどめていなかった。
「ねえ、ボクもやりたい」
「まだだよ」
「ズルイよ兄ちゃん。もう刻むところがなくなっちゃうよ」
「父さんが戻ってくるまで」
「ええー」
 不満の声を上げても包丁に夢中な兄はこちらを見ようともしなかった。ぷっくり頬をふくらませても見てくれないのでは仕方がない。
 歳の近い兄弟というのは面倒なものだ。ボク達双子を含め。おもちゃやおやつの取り合いは日常茶飯事だし、競争心や維持のぶつかり合いで喧嘩も絶えない。兄はよくおやつの奪い合いで負けて泣いていた。
 だけど、一つしかないものを最初に手渡されるのは大抵兄だった。何故ならば、兄が、兄だから。ズルイと思う。だからボクは横から手を出して、喧嘩をするのだ。
 初めての包丁は何ものよりも輝いたおもちゃだった。料理人の魂だとか、相棒だとか、そういった誇りはまだ知らない。ただ、今まで触らせてくれなかった父の宝物を与えられて、二人共はしゃいでいた。大人になったと認められた気がして。
 だけど実際は大人なんかじゃなかった。
 深いことは何も考えず、銀の振り子のおもちゃを止めるような感覚で、手を出した。
 指に嫌な感触がした。痛みじゃなくて、びっくりした。
「イサミッ……!」
 最初に叫んだのは兄だったか、父だったのか。とにかく驚いてしまってよく覚えていない。
 あんなに頑なに独り占めしていた包丁を兄が放り出し、父は受話器を放り出し。ボクは自分の指に滴る赤い血の滴とともにジワジワ湧き上がる、熱いような痛みに声を上げて泣いた。後から思うと、もっと痛い怪我もしたことがあるのだけれど、その時は刃物で負った怪我というのがとても怖くて仕方なかった。指がそのまま手から離れて戻らないような気がして。
 いつの間にか兄も泣きじゃくっていて、二人分の泣き声が響く中、父は素早く止血をして患部を確認し、家庭用の救急箱の中身だけで事態を収拾した。つまり、大騒ぎしたわりにはつまらない怪我だったのだ。
 指にぐるぐる巻にされた白いガーゼに赤いシミは見当たらない。適切な処置の賜である。ジンジン痛むには痛むが、傷口も見えないし、血も拭き取られてどこかへいった。大泣きしたのが馬鹿みたいだ。
「なぁんだ」
 ホッとして、ガーゼ分太くなった指を眺め回しているボクの横で、兄はこの世の終わりみたいな顔をしていた。兄はそういう男だ。
「ごめん、ごめん、イサミ……」
 血が出たのはボクなんだけれど、兄の顔色ときたら、僕の何十倍も血を抜かれたみたいに真っ青だった。応急手当の間に一度引っ込んだ涙がまたポロポロこぼれてくる。
 兄は泣き虫で、怒りながら泣くこともしょっちゅうだけど、こうやって静かに泣かれるのが一番面倒だ。全てを許さないといけない気がしてくる。
「いいよぉ、手を出したボクも悪いって父さんが言ってたじゃないか」
 だけど兄は濡れた犬みたいに素早く首を横に振った。
「もう料理なんかやろうとしない。そんな資格が無い」
「大袈裟だなあ」
 ボクらは昨日誕生日を迎えた。パーティーの後で、父さんが「そろそろ料理を教えてやる」と言ったのを二人で大喜びした。うちはトラットリアを営んでいる。
“トラットリア・アルディーニ”
 大きな店じゃないけれど、料理が美味くて人気の店だ。父さんの作る料理はいつもキラキラしている。
 昨晩は興奮で眠れなくて、二人で窓から星空を見上げて誓い合った。
「いつか二人で父さんよりすごい料理人になるんだ!」
「店をイタリアで一番にしようよ!」
 喧嘩は多いけれど、何をするにも一緒が良かった。
 調理台の上でまな板から転げ落ちた両手包丁がバジルの欠片をつけたまま転がっている。そういえば、ボクはまだ握らせてもらっていないや。兄の顔を見ていると、そんなこと言い出せそうもないけれど。
 困っていると、ボクのお腹が先に静寂に耐えかねた。間抜けな音がじっとりとした空気を踏みつぶす。
「あーお腹すいちゃったな」
「父さんがすぐに戻ってくるよ」
「バジルにボクの血かかってないかな」
「食べる気なのか?」
 ありえない。そんな風に芋虫を見るような目で見られた。心外だ。
「食べ物は大事にしろっていつも言われてるじゃないか。それに兄ちゃんが初めて作ったジェノバペーストだよ。味見はもちろんボクの役目でしょ?」
 泣き虫が濡れてべったりまとまったまつ毛を上下させた。
「クォーコ、タクミ・アルディーニの一番目のお客さんだね」
 赤い目元に再び涙が盛り上がって、可愛い可愛いと賞賛される顔をぐしゃぐしゃにした。
「イサミィ………!」
 ほら、と腕を広げると迷わず飛び込んできて、シャツの肩を濡らして泣きじゃくった。何でボクが慰めてるんだろう。時折指がジンジンと痛むけれど、それよりも今はシャツと一緒に強く握られた背中の肉が痛い。
「兄ちゃんはボクが作ったもの食べるんだからね?」
「グスッ……うん…もちろんだ……」
「失敗しても食べてもらうからね」
「大丈夫さ……だってボクらは」
 泣き腫らした顔に不釣り合いな強い眼差しで見上げてきた。
「アルディーニの息子だもの」
作品名:月の涙 作家名:3丁目