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the ALL【サンプル】

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手に馴染んだ鍵を差し込んで回せば、軽い手ごたえを指に残してドアが開く。
昔から親は帰りが遅く、小学生の頃は無為に一人の時間を自分の部屋で過ごすことも少なくはなかった。部活を始めてから、二階にあるその部屋に人を上げたのは随分と久しぶりだ。
「良かったとね。弟は今日から林間学校じゃき、しばらくは誰も帰って来ん」
「…弟さんがいらっしゃるんですか」
「姉貴と弟がおるよ。しょーもない阿呆ばっかじゃ。柳生は?」
「妹が居ますよ。まだ小学生の」
「はは、いかにもっぽいの。そこ座っといて。歯ぁ磨いて来るわ」
他愛のない会話を打ち切って部屋を出る間際、柳生の反応をちらりと窺う。表情が固いのは連れ立った道中から変わらず、しかし座れと示したパイプベッドを見るその顔色が心持ち青褪めている。やはり無理をしているのだろう。
わざと足音を立てて階下へと移動する。洗面台の前に立って歯ブラシを手に取るが、別にそこまでしたいわけではない。考える時間を与える口実だった。
――貴方がお強いからですよ。
磨き粉を乗せた歯ブラシをくわえ込み、柳生の言葉を脳裏に返す。
いつ見られて居たのだろうか。無心で奥歯を磨きながら考えた。鈍感な方ではないと思っていたが、普段から浴びせかけられる好奇の視線に慣れすぎていたかもしれない。
ふと、柳なら知っているのかもしれないと思う。奴は部内のことを良く見ている。柳生が自分の何を見て、何を考えて声を掛け…何故いま、自分の部屋にいるのか。
さすがの参謀もそこまでは予測出来ないか。口元だけで笑むが、そういえば柳ともしばらく話をしていないことに気付く。
――どうするつもりだ。
同時に、最後に交わした会話を思い出して眉根を寄せた。
否、会話にもならない。柳は己が何を言えるわけではないことを知っていた。
仁王に苦悩を齎しているその一端を、他ならぬ自分が担っている自覚があったからだろう。その日はただ傍らに居て、たった一言しか寄越さなかった。
そして、奴が持てるそのたった一言に、仁王が応えることもなかった。既に奴は仁王の選択を予感しているのだろう。
そこに、少しばかりの情が篭っていたことはわかる。同じ一言で分かることもあれば全く読めないこともあるものだと、部屋にいる人物を思い浮かべた。
口を濯ぎ、背後の階段にはまだ気配がないことを感じて、仁王は洗面所の傍らに置かれた、シャボンの入ったピンク色の容器を手に取り窓を開ける。
咥えたストローに息を思いきり吹き込むと、細かいシャボン玉がたくさん宙を舞うが、どれもさして上昇せずにすぐに割れてしまう。
液にストローを浸して、今度はやさしく息を吹く。大きい球がゆっくりと空へ上っていく。
割れてしまうことが無ければ、いつまででもその綺麗な球体を眺めていられるのに。次を作る必要なんて無い。でもすぐに目の前で消えるから、自分は夢中で次々に息を吹きこんで宙へ浮かぶ球体を作り続けている。
きしり、と床板の軋む音が耳に入って振り返る。戸口には柳生が立ち、こちらを窺っていた。
「窓から、シャボン玉が見えたので…弟さんが帰ってきたのかと…」
一見して、その手に何の荷物も持っていないことにがっかりする。一人部屋に取り残され、怖気づいて帰ると言い出すかと期待していたのだが。
「好きなんじゃ。シャボン玉」
「はぁ…」
自分を放ってまでやることか、とも言わずに曖昧に柳生は相槌を打つ。仁王はシャボン液を元の場所に置き、戸口の人の手を引いて上の階へと誘った。
「本当に弟が帰ってきても、やめんかもよ」
背後で息を呑む気配がする。だが逃げるチャンスは充分に与えた。ここまで来ると些か興味が湧く。こうまでする彼が自分に、何を見て、何を求めているのか。
部屋に入って中から鍵をかけると、手の中の人を引き寄せて齧るようにキスをする。
最初の口付けは、シャボンの苦い味がした。
作品名:the ALL【サンプル】 作家名:みぎり