桜の森の
大学に行く前に、友人の家に寄る約束をしていた。借りた本を返さなければならない。講義の終わった後には家族と外食をする予定なので、今日会うのならば昼間だ。一昨日、本を借りうけながらそういう約束をした。友人は夜神に背を向けて生返事をするばかりで、聞いているのか聞いていないのか判らない。今、友人は独逸語の医学書を読むのに夢中らしい。今更医学部を受けられるような歳でもないくせに、どこからか分厚いのを五冊ほど持ち込んでは一心にページを繰っている。この様子ではろくに食事もとっていないに違いなかった。しょうがないので、日付と時間を書いたメモを残しておいた。それが、ちり紙に使われていないのを祈るばかりである。
自転車で坂を駆け下りながら、にわかに冷たくなった風に首を縮めた。桜ももうほとんど散ってしまって、緑の葉をにょきりと覗かせている。吹きだまりには縮れた桃色のはなびらが凝った。……友人の下宿先にも桜の木が生えている。窓を開ければ枝がぐっと目の前に迫った。遅咲きの八重桜で、今が盛りである。……自転車を止めた。首を巡らせた先、友人の部屋の窓が開いている。夜神は少し眉をひそめる。錆の浮いた階段をのぼり、階段から三つ目の部屋をノックする。返事を待たずにドアを開けた。立てつけの悪いドアはギィギィときしみながら部屋の様子を知らせてくる。玄関口までメモ用紙が散らばっている。一枚二枚三枚、拾い集めたところで夜神は折り曲げていた腰を戻した。きりがない。狭い四畳半に、数えきれない紙の量だ。そうして、その上に散らばる薄桃色の桜のはなびら。
友人は万年床のふとんの上で丸くなっている。白いシャツの上にも、黒髪の合間にも、腰ではいたジーンズのポケットにもはなびらが迷い込んだ。身動きしない様子に、少しだけ心臓が跳ねる。竜崎? 夜神が物音をたてても、起きる気配はなかった。しかしよくよく見てみれば、呼吸のたびに薄い背中が上下する。一つため息をついてかばんを畳の上に置いた。握り飯の包みを取り出して卓袱台の上に置く。流しに伏せてある湯のみとカップを上向けた。やかんに水をためる。コンロに火をつける。
先日この部屋にやってきたときは確かにあった分厚い医学書はいつの間にか消え失せていた。メモ用紙と原稿用紙とはなびらが散らばっている以外は、いたって普通の友人の四畳半である。シュンシュンと湯が沸き始める。夜神は包みを開いて握り飯を取り出すかたわら、友人の名前を強く呼んだ。ぴくりとも動かない様子に、首を傾げる。その間も、開いた窓から冷たい風とはなびらが吹き込んでくる。風は部屋の隅でくるくると渦を作った。はなびらと一緒にメモもまきあがる。
やかんが大きな音をたてた。立ち上がり、急須に茶を淹れる。湯のみとカップを持って卓袱台に戻ってきたときにようやく友人がもぞもぞと起きだした。丸い目を眠そうに細めて、不法侵入です夜神くん、そう言って寄越してくる。不法侵入でいいから食えよ、どうせろくに食べてないんだろ。なんで判ったんですか。言いながら、握り飯に手を伸ばした。そうだな、人間はどれぐらい食べずに生きてゆけるのかとか、どれぐらい眠らずに生きてゆけるのかとか、そういうくだらないことを考えて実践してたんだろう、それでとうとう昨日の夜に精根尽き果てて万年床の餌食になったわけだ。夜神はそう得意げに言って友人の顔を覗き込んだ。友人は重たい前髪の向こうから夜神を睨みつけてくる。そうして、二人でもそもそと米粒を咀嚼した。ずずっと茶を飲んでいる間も窓からの風はやまない。とうとう卓袱台の上にも降りかかって、白い米粒の上にはなびらがのった。見てください夜神くん夜神くん。呼ばれて覗き込めば、湯のみの緑茶に桜の船が揺れている。心配するほどのことでもなかったな。夜神はそう呟いて、自分のカップをじっと見つめた。そうして、部屋に入ったときの妙な胸騒ぎを打ち消そうとする。……でも、ちょっとびっくりしたでしょう。別に。死んでると思いました? お前が死んでも葬式には誰も来ないだろうな。呼べるような友人はあなたしかいませんからねえ。そう呟き、友人はぎゅっと眉をひそめた。夜神くん、これうめぼし入ってるんですけど。入ってないなんて言ってないよ。言いながら、夜神は種をてのひらに吐き出した。友人は心底恨めしそうに夜神を睨みつけてくる。その様子に夜神は少し笑って、鞄の中からまんじゅうを取り出した。