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OMOIDE IN MY HEAD

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 長いこと居座っていたのでコーヒーが冷めていたのが幸いした。伊達は一つ二つまばたきをして、カツカツとヒールの音をたてて去って行く彼女の背中を眺めた。その間も、前髪から茶色い液体が滴り落ちて服を汚している。凍りついた空気の中をずりずりと身動きした。濡れた前髪を後ろに撫でつけ、顔の水滴をてのひらで拭う。晒された額に視線が痛い、と、思う。顔を上げると何人かと目があった。そそくさとそらされた視線に小さく舌を打つ。席を立つ。レジ脇でこちらの様子をこっそりとうかがっていた店員に、トイレの場所を訊いた。彼はぎょっとした顔で、言葉もなく右手を上げる。指し示されたドアの中にからだを滑り込ませて、大きく息を吐いた。鏡を覗き込んで、自分の惨状に思わず笑ってしまう。コーヒーをひっかけられた顔はもちろん、服も茶色いまだらで汚れた。淡い色のシャツを着てきたのが失敗だったな、と思う。洗面所の蛇口に手を差し出した。濁った水はすぐに排水溝に流れて消える。汚れた眼帯をゴミ箱に捨てた。傷があらわになってしまうが、そうでなくともこの有様である。気にするような人間もいないだろう。
 顔と髪を洗い、シャツを脱いで軽くゆすいだ。茶色いシミはわずかに残るのみだ。及第点である。ぎゅっと絞って水気を切ったあと、濡れた髪と顔をそれで拭った。皺を伸ばす。しかしこれを着てゆく気にはなれない。そうしているうちにトイレのドアが開く。客なのだろう男と目が合って、伊達は思わずぎょっとしてしまう。それは向こうも同じだったらしく、彼はそそくさと用を足してトイレを出て行った。重たいため息をつく。
 デニムから携帯電話を取り出した。誰かを呼びだして服を持ってきてもらうかしなければならないだろう。あいつにするかこいつにするかと、親指がふらふらとキーの上をさまよった。そうして友人の二三人に電話をしてみるが、どれもこれも繋がらない。留守電に誘導しようとする音声を待って、ここぞとばかりに文句を吹き込んでやった。それでも気が収まらない。大きく舌を打って、鼻から息を吐き出した。水気で重いシャツにちらりと目を向ける。晩春とはいえ、これを着て出歩くのは気が重い。
 そうしてまたため息をついたところであった。トイレのドアが開く。今度は目を合わせないようにしようと携帯の液晶画面に目を落としていたが、ひとの気配は伊達の前から動こうとしない。用を足す様子もない。恐る恐る目を上げると、赤い男が立っている。赤い男は半裸の伊達の様子を上から下まで眺め下ろして、ああ、と呟いた。そうして、おもむろに自分の着ているTシャツを脱ぎ始める。どうぞ。
 差し出されたTシャツと、男の顔を見比べる。思わず、はい?と口に出してしまった。服、濡れてしまったのでござろう。え、あ、そうだけど。そのかっこうでは外に出られぬ。ずいとTシャツが突きだされる。伊達がぼんやりとその様子を眺めていると、男は少し眉をひそめて下に着ていたTシャツの襟首を鼻に近付けた。……汗臭くは、ないと思うのだが。
 これを着ろということなのだろう。伊達は恐る恐るそれを受け取った。腕を通す。男は満足したように一つ頷いて、用を足し始めた。伊達はふと鏡を覗き込む。赤くなった自分がそこに立っている。胸元の布地を摘みあげて、そのにおいをかいだ。洗剤のにおいがする。
 ああいうことは自重したほうがいいと思うが。手を洗いながら男が呟く。……初対面の人間にそんなこと言われる筋合いねえんだけど。すると勢いよく男は首を伊達に向ける。心底驚いたという顔で、はあ?と叫んだ。ぎゅっと伊達を睨みつけ、呆けている伊達を認めて視線をそらす。……信じられぬ、ここまでとは……。
 伊達が反駁しようとしたその矢先、トイレのドアがコンコンとノックされた。ドアの隙間から、店員が顔を覗かせる。申し訳ありませんが、他のお客様もおられますので……。男は申し訳ありませぬと頭を下げ、伊達の腕を引いた。慌てて洗面台にかけておいた濡れたシャツをひっつかむ。トイレを出る。店内の視線という視線が二人に集まって、伊達は瞬きを続けて二つ、した。男は伊達のテーブルから伝票をひっつかんで会計を済ませてしまう。ぎりぎりと手首に食い込む男の手の、力の強さ。
 店を出て、陽の強さに思わず目が眩んだ。男は伊達に構わずずんずんと歩を進める。その遠慮のない様子に、怒りを通り越して呆れてしまう。おい、と声をかけた。なんでござろう。アンタはどこに行くつもりなの。某の家で……。言いさして、ぴたりと男が歩を止める。その拍子に、伊達の髪から滴が一つ赤いTシャツに垂れた。手首に食い込む手の力がだんだんと弱くなってゆく。
 おい、ともう一度声をかける。男はびくりと肩を震わせて、伊達を振り返った。ぐっと口をへの字に曲げている。伊達の目とぶつかるや否や、口元をてのひらで覆って視線をそらした。伊達は、不機嫌そうにひそめられたその眉のあたりを睨む。もうすっかり弱くなった男の手を振り払った。一歩間合いを取る。デニムから財布を取り出して、樋口一葉の札を一枚抜いた。
 さっきの代金。多すぎまする。このTシャツ代も込みで。それは困る。話がまるで通じない。伊達は舌を打って地面を爪先で叩いた。じゃあどうしろって!?自分から押しつけてきたんだろうが!……普通に洗濯して返して下さればよい、政宗殿、ああいうことはもう自重なされよ、今年に入ってもう三人目でござろう。
 ぎょっと目を剥いた。男は伊達のその様子にニヤッと笑って、それではと言って踵を返す。雑踏にまぎれてじきに見えなくなった。伊達は呆然とその様子を眺めていたが、ふと手元の五千円札に目を落とした。その拍子に、自分の着ている赤いTシャツが視界に入る。尻ポケットで、ぶるぶると携帯が震えている。とりあえず、時代がかった口調の赤い男を探さなければならない。……伊達は、赤はめったに着ない。そのせいだろう。なんだかひどく自分のからだが熱いような気がして、少し困った。
作品名:OMOIDE IN MY HEAD 作家名:いしかわ