彼女がくれたもの
時々、綾那の趣味が理解できない。
綾那が選んできてくれた本のタイトルは『相手にダメと言わせない100の方法』とかそんな感じのタイトルで、一時期流行した心理系の本であった。
「あ、ありがとう……」
「いやいや、礼には及ばないよ」
少なくとも、順のバカが選んだ本よりも面白そうである事は間違いの無い事だった。
「──どう、調子は?」
綾那は少しだけ考えた様子を見せた後に聞いてきた。
「んーまずまず。そんなには悪くないけど」
「そっか。なら良かった」
「そっちは?」
「相変わらず。順もクロも特に何も変わった様子も無いさ」
「そっか」
相変わらず、という言葉に私は胸の奥でくすぶっていた焦燥感めいた何かがふつふつと再び湧き上がる。
外に出られないという単純な嫉妬、友人が先に進んでしまうという焦燥感、そしてあの中にいられないという悔しさ。
それら全てが、私に対して何かしらの感情を生み出させようとしている。
「あ、でも」
「ん?」
「順は一人の時、少し静かになったかな。時々何かを考え込んでいる様子もあったし」
彼女の口から順の名前が出た事に少しだけ喜びを感じてしまう。
同室である彼女は、時々私なんかよりも良く順の事を観察している事もあるのだ。
「皆の前では相変わらずだけどね」
「そっか……」
綾那と試合う事ができて、順の中でも何か考える事ができたのだろうか。それと、私が剣を順に託していった事に対して、何かを感じる事があったのだろうか。
だとしたら、嬉しい。
私は私なりの方法で前に進むから、順にも前へ進んで欲しい、そう願っているのだ。
「綾那はさ、順の事、好き?」
「な、何でいきなりそんな事言うのよっ!」
「いや、何となく……」
突然の私の言葉に綾那は驚いた様子だった。
「確かにあいつはバカで変態でどうしようもないし人の事は考えない奴だ」
随分な言われようだ。まあ、間違ってないのだけれど。
「けど、本当の意味であいつはバカじゃない。本当に重要な時には、それなりにちゃんと考えられる時だってあるさ」
「あんまフォローになってない気がする……」
「まあ、バカだしな」
やはり綾那は素直と言うか、歯に衣着せない言葉を使うので安心する。
「でもまあ、本当の意味でバカっていうのは、クロみたいな事を言うんだが……まあ、この話には関係ないな」
「チビっこ」
「ああ。あいつは本当の意味でバカだ。けど、バカはバカなりにちゃんと考えって物を持ってるしね。バカだけど」
あんまりバカバカ連呼する物だから一瞬綾那が壊れてしまったのかと思った。
けれどやけに納得してしまうのは、刃友である綾那だからこそここまで言えるのだろう。
「順はそういう意味でバカになりきれていない。わざとおどけてみせて、自分の本質を隠そうとしていう様に私は見える」
「よく、見てるね」
「まあ、同室だし」
「順はね、まだ甘えているの。今までは私に。静馬を守るという久我の使命で、私に依存しているの。まるで自分の存在がそれでしか誇示できないかの様に。でもそんなのはおかしい。順は順でしかないし、私は私でしかないのに」
綾那は私の言葉に黙って耳を傾けてくれている。
「だから私は剣を託した。これは私の甘えかもしれないし、順を甘やかしていると取られても仕方ないと思う。けれど、私は順に成長して欲しいと思った。私に依存するのでなく、久我でもなく静馬でもない、一人の剣士である久我順として立って欲しかったから」
「なるほど。確かにあいつは夕歩にべったりだしな」
「そう。だから一人で立って欲しいの。それで星を獲られて無くなっても構わない。普通の生徒として生きていく事にもなって構わない。それでもいい」
少し熱く喋りすぎただろうか、軽く体が熱い。
「夕歩、少し横になったら?」
「うん、ごめん……」
綾那に体調が悪いのが解ったのか、勧めるがままに私は体をベッドに横たわらせた。
「夕歩、あんたの気持ちは良く解ったよ」
少しだけ微笑んだ綾那がさらに言った。
「けど、どうしてその事を本人に言ってやらない?」
順に──確かに私は何度か考えた。順本人にこの事を言って、私の気持ちを納得してもらおうと思った。けれど、それじゃダメなのだ。順には自分で気付いてもらわなくちゃいけないのだ。
「気付いて……ほしいから」
「──なるほど」
綾那にはこの一言だけで解ったらしい。
流石、察しが良い。
「それと綾那」
少しだけ重くなってきた目蓋を無理矢理開けつつ言った。
「私がいなくて、もし順が綾那に依存する様になったら──その時は、突き放して」
その言葉に綾那は唇の端を持ち上げて笑った後、こう言った。
「言われなくてもそうするさ」
「……ありがとう」
綾那ならそう言ってくれると思った。
あのチビっこの接し方を見ていれば、何となく解る。
彼女は信頼して放任しているのだ。そしてギリギリの所で手綱を握っている。
まだ若いチビっこの事を、少し乱暴なやり方だけど導いているのだ。
「羨ましい」
「え、何か言った? 夕歩」
危ない。どうやら声を漏らしてしまったらしい。
「ううん。何でもない」
「そっか。それじゃあ私は行くよ。悪かったね、体調崩させちゃって」
「ううん、そんな事ない」
綾那は立ちあがり、座っていた椅子を元の位置に戻した。
すらっとした体つきと、立ち居振舞いがとてもスマートで格好が良い。
あまり手入れのされていない髪の毛だけれど、それが逆に彼女をクールに見せるのだ。
本当は、チビっこなんかよりも熱い心を持っているというのに。
「それじゃ」
綾那は踵を返した。
「──そうだ綾那」
私は綾那を呼び止めた。
まだ聞いていないことがある。
「うん?」
足を止め、私の方に振り返る。
「順の事……好き?」
私がそう言うと綾那は、ふん、と鼻で笑い、言った。
「バカは嫌いじゃない」
そしてまた踵を返して、ドアノブに手をかけた。
「ありがとう──」
綾那は私の方を振り返らず、ドアノブを掴んでいる反対側の手をひらひらと宙で羽ばたかせて部屋から出ていった。
ありがとう。そして、順の事、よろしくね。
私なんかよりもずっと、順の事を支えてあげられる人は、あなたしかいないんだから。
綾那の僅かに残る香りを感じながら、私は静かに目蓋を閉じた。
きっと、大丈夫。順も綾那の支えになれてあげるといいな。
私には、まだできない事だから。
そしてそれよりすぐに、暗くて真っ白い闇が私を襲った。
少し熱っぽいけど、今日はよく眠れそうだ。