夜を飲み込む
休み時間ぎりぎりまでベンチで寝るつもりでいたので、腹が立って、イライラと手を出した。本を返せってことだ。
だけど無言の要求なんか見てやしない。勝手に中身を見て、眉を寄せている。
「なんか難しそうなの読んでるんだな」
「難しくなんかないさ。これが難しく見えるって言うなら、本を読む習慣がついてない証拠だぜ」
当然嫌味だが、残念ながらあっさり納得されてしまった。
「読書感想文も国語の教科書で教材になってた本を選んだぐらいだからな」
「受験生なんだからもっと活字慣れしたほうがいいんじゃないか」
「じゃあ、今度コレ貸してくれよ」
コレっていうのは小説だ。盲目の男が放浪しながら生きていく話。結末はまだ読んでいない。惨めったらしく死んでしまうのかもしれないし、最後まで探し求めた朝は来ないのかもしれない。
「きっと好みじゃないからやめとけよ」
「どうして」
「暗い話だから」
もう眠れないと判断してベンチを離れた。
教室に向かう俺の隣を自然な距離で歩き、預かったままの小説をパラパラとめくっている。適当なページに指を挟んでは紙面に目を留め、すぐにまためくる。それを黙って見ていた。
真面目に活字を追う姿は、少しは賢そうに見える。夏場の屋外プールで焼けた肌は見るからに体育会系で、考えるより動くのが好きそうだけど、実際は数学に強くて国語が弱い。でも受験に困るほどじゃない。水泳部の強い高校を選ぶならなんとかなるだろう。志望校を訊いたことはないけど。
俺は、学区内で一番の進学校を選んだ。
ぼんやりと描いている将来像に一番近いと思ったからだ。水泳部もあるけど、大会で目立つような学校じゃない。競泳を辞めるわけじゃないが、最優先にはできない。中学の間、全力で部活をやれたわけじゃなかったから未練はあるけど、高校生活の全てを部活に燃やしていいとは思わなかった。
もし俺の予想しているとおりだったら、あと少しの付き合いになる。方向が違うから、通学電車で一緒になったりもしないだろう。
いつの間にか見つめすぎていたみたいだ。視線を気にして振り返り、意味もなく笑顔を見せる。愛想の無駄遣いだ。無駄遣いしても尽きないんだろうけど。彼は明るくて、ひたむきだし、感動屋ですぐに感極まる。そういう人情味の塊みたいなところがいいのか人望厚い。部活では部長をやっていた。俺とはタイプが違う。ただ同じクラスにいたら最低限しか関わらなかっただろう。同じ水泳部で過ごした時間があるからこそ、わざわざ昼寝を起こしに来る。
大会でなら、中学を卒業してからも会う機会があるだろうか。きっと昨日もあったような態度で笑って手を振るに違いない。しかも、一緒にいた自分の高校の仲間を紹介したりする。自然に身の回りの人脈をつなげていくタイプの人間だ。正直面倒くさい。今は同じ学校だからそんなことはないけど、一年の時の大会で、小学校の時の友達とやらを紹介された覚えがある。もう顔も名前も出てこないが。
そういうところが無遠慮に感じて苦手だったのに馴れてしまった。来年には「コイツ昔の仲間」と言って紹介されることに馴れるのか。面倒くさい。再会したくない。
俺の目の前にはいつも少しの陰りがある。吹き飛ばせないぐらい絶望的なものじゃない。そのハードルが必要だと理解して、自分で選んでそちらへ行くこともある。誰だって、明日や来年やずっと先の未来に不安ぐらいある。見えない明日を手探りで進むのが人生だ。と、本にあった。
だけど、彼は不安を抱えていたって輝いているように見えた。そばで笑顔でいられると俺が本心から笑っていないのが目立つから、愛想笑いしか出来ないような時には隣に立ちたくない。
そんな男だから、卒業しても上手いことやっていくんだろう。先輩にも可愛がられる方だ。
パタンと本を閉じて、人好きのする笑顔でソレを返された。
「大丈夫、そんなに暗い話じゃないみたいだった」
「…………オチを読んだのか?」
「パラパラっとな」
受け取ったばかりの本で腰を力いっぱい叩いてやった。コイツのこういうところが嫌いなんだ。
情に脆いけどデリカシーは足りないし、人の気持ちがわからない。それからトレーニング馬鹿だ。
「いってぇ!」
言う割には堪えていない。俺よりよっぽど体を鍛えているからかもしれない。
彼よりは脆そうな本が痛まなかったか確かめながら、少しだけ最後の方のページを開いた。
“光が差して夜を飲み込んだ”
文字列を指でなぞる。
「俺、読むの遅いからいつ返せるかわかんないし、長く貸し出していいと思った時に貸してくれよ」
「読み終わる前に卒業するだろうな」
「別にすぐ会えるだろ?心配するなって」
「………そうだな」
ゆっくり隣を見ると、腹が立つほど眩く笑っているのだ。