こんなに哀しいのなら君のことなど忘れてしまいたい
男は愛の言葉を囁き続けている。顔面は蒼白で、声色は暗い。
呪詛のようだともう一人の男は思った。そして少し嗤った。悲しいと思った。
男の仕事場だったはずの場所は嵐が通り過ぎたかのように荒れ果てていた。床には書類が散乱し、割れたガラスや植木鉢の残骸、燃え屑となった写真。全てこの部屋の主がやったものであるので、誰にも文句を言われることはないのだろうが。ひどいものだった。
「君が笑いかけるモノが全て憎い。」
自嘲めいた声はかすれて、惨めったらしい。男も分かっているのだろう。割れたガラスを一片拾い、また一片拾う。
「人間が好きだ。特定の誰かなんかじゃない。全ての集合である人間という存在を愛してる。」
もう一人の男はただじっとしている。否、しているしかない状態なのである。彼は暴力である。その存在の力を思うがままに振るえば、きっと男など赤子の手を捻るよりも容易くねじ伏せられるに違いない。だが、数時間前に男に盛られた薬が彼の自由を奪っていた。身体は灼けるように熱く、頭を殴られているような痛みが続いていた。けれども、理性だけは辛うじて残っていた。それが幸か不幸かは分からないが。
「それなのにさ、君が憎いんだ。平和島静雄がどんな風にすれば、心折れ無様に醜悪に堕ちていくのか。そればかりを考えてる。そのために君のことは全て俺だけが全部知っておく必要がある。だって、シズちゃんに暴力でなんて勝てるはずがない。ただ、君の足りない頭を利用して全てぶっ壊してやろうと毎日考えてる。君が泣くところを想像している。毎日っ毎日っ毎日!ああああああああああああ憎い。」
男は静雄の白い肌にガラス片を押しつける。力の限り押し込む。全力で傷をつけようとする。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。男の目はもう憎しみしか見えていない。勿論、うっすらと掠り傷がつく程度にしかならないのが彼の身体であることは重々承知の上だった。それでも傷つけずにはいられないのである。ああああ憎い。
「君も僕のことが憎いだろう!なのに!どうして!」
男のひんやりとした手が静雄の白い首にかかる。力は籠もっていない。
「どうして抵抗しないの。シズちゃんのこと殺しちゃうよ?」
静雄はずっと臨也のことをまっすぐ見つめている。荒れ果てた部屋の中、まるで人形みたいな目をして。まっすぐ、まっすぐ臨也の劣情に歪んだ顔を見ている。臨也はずっと静雄のことなど見えていない。自分の感情に押し潰されるままに静雄を殺す方法を考えている。静雄はなんだか視界がぼやけていた。醜い男の顔さえ滲むのだ。
「どうしてそんなに簡単に薬が効くのさ。君は化け物なんだよ?効いちゃいけないだろう?だって、そんなの君らしくない。君は化け物なんだよ?あんなに愛しそうに他人に笑いかけちゃいけないだろう?だって、そんなの君らしくない。」
男は静雄の上から降り、まだ無事だったカーテンをご自慢のナイフで切り裂いた。あっさりと破れたそれを見て、ちっと舌打ちが響く。
静雄は悲しいと思った。頬が濡れる感触はもう否定しようがなかった。
彼は泣いていた。心から泣いていた。
「どうして君が泣くのさ。泣きたいのはこっちのほうだよ。」
男は馬鹿みたいに空々しく嗤った後、また一片ガラスを拾った。
作品名:こんなに哀しいのなら君のことなど忘れてしまいたい 作家名:はづき