かじみちつめ
OPE.9のあと
医局の時計の針が定時を指すとすぐに未知子は立ち上がり、さっさと着替えて部屋から去っていった。
それから少しして加地は何気ない様子で自分のデスクから離れ、周囲にいる者たちに軽く挨拶してから部屋を出た。
廊下を進む足を、走るまではいかないが、早める。
やがて病院の建物から出た。
日は暮れている。風が冷たい。
眼が捜していたものを見つける。
未知子が立っている。
それも、加地のほうを向いて。
加地はドキッとした。追っていたのに気づいていたのだろうか?
実は未知子が定時になって医局から出て行った少しあとに自分も医局から出られるよう定時まえに今日しなければいけないことはすべて片付けていたのだ。
未知子は加地の顔を見て、強気な表情で言う。
「加地ちゃん、夕ご飯、おごって」
「……お、おう」
返事するのに一瞬間があったのは、戸惑ったせいだ。
自分が未知子を追っていた理由。それは食事に誘いたかったからである。
まさか未知子のほうから言ってくるなんて。
びっくりだ。
それに、嬉しい。
だが、加地は喜びを顔に出さないようにする。
「おまえには借りがあるからな」
その加地の台詞を、未知子は、へえ、という表情で聞いていた。
それから、歩き出す。
加地は隣を歩いている未知子のほうを見ずに言う。
「おまえが九重さんの個室から出て行ったあと、言われた。ありがと、ってな」
頭にあのときの光景が浮かぶ。
九重真耶が流した涙も。
「良かったじゃない」
未知子の声。
加地は未知子のほうを向く。
未知子は明るく笑っていた。加地と眼が合うと、軽くうなずいて見せた。
胸の中で心臓が一度、大きく跳ねた。
もう自分はいい歳なのにと情けなく思う。笑顔ひとつに動揺させられてしまって。
「それで、だ」
動揺を隠そうとした結果、声が硬くなった。
それでも無理矢理に続ける。
「次のパリコレには招待すると言われた」
「へえ」
「是非、と返事しておいた」
「ふーん」
「で、だ」
緊張する。
その緊張を振り切って、加地は未知子に問いかける。
「そのときはおまえも一緒に行かないか?」
緊張がもどってくる。やっぱり言わなければ良かったかと後悔もし始める。
「……それって、加地ちゃんのおごり?」
「へ?」
「旅行費用、加地ちゃん持ちだったら行く」
あっさりとした口調だった。
その未知子の返事は承諾だ。
よっしゃあ!と声をあげたくなる。
だが、そんなことをするのは恥ずかしいので、別の台詞を口にする。
「おまえにはでっかい借りがあるからな」
けれども、最後は抑えきれずに笑ってしまう。ニヤけてしまう。やっぱりコイツはデーモンだと思う。
ニヤニヤを消し去るために、加地は話題を変えることにした。
「で、晩飯、なににする?」
「うーん。あ、じゃあ、このあいだの串カツ屋!」
「おまえ、串カツ嫌いなんだろ?」
「嫌いだったら、あんなに食べない」
「たしかに、おまえ、ものすげぇ食ってたよな」
未知子が食べた串カツの串の数を思い出した。
結局、未知子はそういう医者が嫌いと言いたくて、串カツについては勢いで言っただけで本当は嫌いではなく好きなのだろう。
「だが、どうせなら、他のもん食わないか?」
「じゃあ、焼き肉!」
未知子の声が弾んだ。
その表情は明るい。
「おいしい焼き肉が食べたーい!」
「あ−、ハイハイ、わかったわかった」
焼き肉ならどこの店がいいのか考えながら、つい加地の口元はにやけてしまった。