あなたをだきしめる話
「おかえりなさい」
そのまま、弱い声ではありましたが、以前アーサーさんを訪ねたときに彼が私に下さった言葉を返してみました。訪問など、まだ片手の指で足りる数の出来事であったというのに、そのあたたかな歓迎は、どんなに私を満たしたことでしょうか。私はそんなささやかな幸せを、アーサーさんにお返しできる日を心よりお待ちしておりました。
「ああ、ただいま」
お顔を拝見できないのが残念ですが、声色は、悪くありません。私は手のひらからほんの少しだけ力を抜いて、成功を喜び、ほうと安堵しました。すると、アーサーさんが再び私をぐっと抱き込むので、私はまた鼻をぶつけてしまいます。それでも、私の喉に言葉はありませんでした。せっかく緩んだ手のひらも、ぎゅう。
私たちは、暫くそうして過ごしていました。玄関口でなんてはしたないとか、いま誰かがいらっしゃったらどうしましょうとか、そんな感覚ばかりが麻痺して、肝心なこの胸だけが、初心であり続けて痛む……ですが、それを持て余して指先が震える度に、私は彼を愛しているのだなあと自覚するのです。それを誇らしく思う一方で、同時に私は、脅えてもいました。
そう、私は常に脅えていました。アーサーさんの息を吸って吐く音を、なんとなしに意識して聞いていると、彼は急にふと思いついたかのように、「あれ?」と訝しげに発したのです。私の恐怖が一気に渦となって押し寄せます。ああどうされましたか。何か粗相をしたでしょうか。アーサーさんがいらっしゃる前にお風呂も済ませましたし、廊下のお掃除も、換気も。生憎の雨、気温が。他に、何か至らないところが。ああ。ああ。だとしたらすぐにでも謝罪を……ですが、今の私はアーサーさんの強い腕の中。身動きが取れません。アーサーさんの顔が見えません。だから、彼の衣服に唇を擦らせながら、「どうなさいましたか」と問うしか。
「……いや、その……んー……」
何か考え事をするように呻いて、そして私の髪を掻き分けるようにすんすんと鼻を鳴らすアーサーさん。私がますます恐怖を巡らせていって、胸をばくばくと鳴らして、彼の次の行動を予測して様々な攻略を練りだして、ようやく、「ああ」と。声色は、実は悪くありませんでした。
「なんだ。石鹸、変えたんだな」
さらり。そう答えて、またぎゅぎゅうと私を抱き締める。なぞなぞが解けてうれしい子供のような、褒めて褒めてと甘えるようなその姿に、私の鼓動はしゅんと静まって、そしてそこには響きだけが残りました。――Welcome home!
こんな細やかな幸せを、かつて誰がおしえてくれましょうか。
私は、固まっていた指からそっと力を抜いて、それから恐恐とまるで陶器の入れ物を扱うように、アーサーさんの背中に触れました。アーサーさんがふるりと震えたのに気を良くして、思い切って手のひらを押して、私はとうとう、彼を抱き返したのです。
「きく……っ!」
嬉しい貴方が泣きそうな声で私を呼ぶので、私も唇を震わせながら、彼の名前をそっと口にしました。
「おかえりなさい、おかえりなさい。アーサー」
いとしいあなたをだきしめるはなし。
作品名:あなたをだきしめる話 作家名:pima