伊角の碁
虹の向こうに
――― あの日も、冷たい雨が降っていた。
受験勉強の毎日は、苦痛じゃなかった。
勉強に集中していれば、あの日のことを忘れられるから。
ただ、不意に襲ってくる消失感。それが苦しくて……辛かった。
自分の中にあった大きな柱が無くなって。それは自他共に認める、自分自信の存在価値でもあったから。
だから、今はその穴を埋める時間が欲しかった。
いつか再び、オレはこのドアを潜ることはあるだろうか?
冷たい雨が体温を奪って行く。それに構うことなく、伊角は棋院の正面玄関を見つめていた。
いつからここで立って居るだろう?
今日は学校が休みで、図書館に行って……。少し疲れたから、そう、ロビーで紅茶を飲んでたんだ。
降り出した雨のせいか、館内は人もまばらで、テレビを見ていたのは、伊角のほかに年配の男の人が一人だけ。彼は何か時間をチェックしながら、手を伸ばしてチャンネルを変えた。
ブラウン管いっぱいに映し出されたまだ幼さの残る顔に、手から缶が落ちる。
静かなロビーに響き渡る渇いた音。
男が振りかえって何か言ったような気がしたが、それは言葉として認識することが出来なかった。
自動ドアの向こうは、銀色の世界。傘も持たずに、伊角は踏み出していた。
あっという間に服は雨に濡れて重くなっていく。
吐き出す息は白く、足元から這いあがってくる寒気に身を震わせる。
それでも、外に居たかった。あのロビーには居られなかった。
新たなプロ棋士として、嬉しそうに笑う和谷を見ていられなかった。
自分より一年後に院生入りした、小さな少年。
ライバルでありながら、誰よりも彼のプロ入りを望み、応援してきた。それは、自分がまず先にプロになれる自信が、心の奥底であったからだろう。
なんという傲慢さだ。
気がつけば、自分より下だと思っていた人達が自分を飛び越え、プロの門を潜って行く。
今回だってそうだ。
……受かるつもりでいた。絶対、大丈夫だと。
その結果がコレだ。
自分の碁を信じている。
それは今も変わりはない。
院生を辞めたことも、九星会を辞めたことも、自分の決断。
……夢はいつか覚める。いつまでも夢を追っていられないから。
そう納得して、自分で決めたことだ。
和谷達にも、心からの祝福を送ろうと、そう思っている。
だけど、不意に現実をつきつけられると、こんなにも自分は取り乱してしまう。
まだ、まだ! オレは囲碁を続けたいんだ。プロ棋士になりたいんだ。
夢から覚めた夢の中から、抜け出せずにいる……。
図書館からこの棋院まで、どうやって来たかは覚えていない。
道すがらの人から、傘をあげると言われた気もした。
だけど、今、雨の下でこうして立ちつづけている。
プロを目指し、九星会に入り院生になって……。このドアの向こうに通っていた日々。
それを捨て去ったのも、また自分。
……いつか、この心の穴も埋まる日が来る。
自分の碁を信じた日々は、決して嘘ではないから。
自分の碁。
それに全ての意地とプライドをかけている。
おそらくプロ棋士達も、きっとそうだ。
誇り高かった日々は、自分の糧となる。だから、いつまでもここで立ち止まっていてはダメなんだ。
分かってはいる。分かっているんだ!
だけど、それで自分を納得させられるほど、大人ではないから。
頭の中が混乱する。自分の感情が整理できない。
「……伊角さん」
だから、後に立つ人に気づかなかった。
雨の中佇む人を見つけた時、息が止まった。
連絡できずに、その安否を心配しつづけていた人。
自分の憧れであり、目指し、そしてライバルだった。いつしかその思いが思慕に変わり、思いを交わして……。
手に入れたと思ったら、指の間から零れる砂のように消えてしまった。
はと気づいて、急いでタオルと傘を手に持ち外へ飛び出す。
自分に気づかない人の横に立ち、そっと声をかけた。
「……伊角さん」
驚いて振り向く伊角に、和谷はそっとタオルを差し出し、傘を傾ける。
「なにやってるんだよ、伊角さん。風邪、引くよ」
久しぶりに聞く和谷の声は、以前と変わっていない。そう、彼自身はなにも変わっていない。
「……和谷?」
「うん、なに? ともかく、中入ろうぜ? 身体、乾かさなきゃ」
そう、二人の環境が変わっただけ。
「いや、いい……。なぁ、和谷。ひとつ質問していいか?」
「いいけど、中入ろうぜ?」
グイと腕を引かれても、動こうとしない伊角。
「……オレは、間違っていないよな?」
プロを目指した日々も、オレの碁も。
こうして迷うことも、悔しさに涙をこぼすことも。
夢を追いかけた日々も、なにもかも。
俯いたせいで表情は窺い知れないが、細い肩が小さく震えていた。黙って和谷は、掴んでいた腕を離す。
「……伊角さん。オレ、ずっと伝えたいことがあったんだ。聞いてくれる?」
そして、ほんの少しだけ照れくさそうにして顔を覗きこむ。
「伊角さんがいたから、オレはここまで上がって来れたんだ。ありがと……」
和谷の温かい両手が、伊角の両頬を包む。傘が地面に転がり雨が二人を打つけれど、そんなことなど気にならないほど、熱い瞳が貫いてくる。
「だけど! これで終わりじゃない。伊角さんも、オレも、これからだろ? どれだけオレ達が頑張ってきたか、みんな知ってる。ここで終わりじゃない。今度は、オレが伊角さんを引っ張るから……引っ張るからさ!」
一緒に、歩こう?
優しい囁きが唇を擽る。
身体を打つ冷たい雨は、今は優しい。
さっきまでの、あの狂いそうな心が静かに収まっていく。
頬に温かい指が触れる。
「大丈夫、伊角さん。間違ってないよ」
途端に涙が溢れた。情けないと思っても、止まらない涙。
「大丈夫だから……今は泣いていい。泣き終わったら、また歩き始めよーぜ。な、伊角さん?」
たとえ伊角自身がどんな結論を出そうが、それは間違っていない。
二人同じ道を選んでも、別の道を選んでも、共に歩いて行けるから。
今は、ただ泣いたらいい。
普段から大人な人だけど、こんな時くらい泣いたっていいと思う。だってオレ達はまだ子どもだから。
迷うことも、悩むことも、間違っていない。
だから、どうか、どうか……。
今はこの人を守れる存在でいたいから。
抱きしめる腕に力をこめる。
「……風邪ひくよ。中に入ろう?」
腕の中の人が落ちついたのを見計らって、そっと声をかける。
「ゴメン、和谷。…服が濡れたな」
「そんなのいいって。だから、中に――― て、伊角さん!」
和谷の胸を押して離れると、伊角は雨の中歩き出す。慌てて追いかける和谷を手で押し留めて、笑う。
「ありがとう、和谷。……それと、おめでとう。ガンバレよ?」
「伊角さん!」
「……オレは大丈夫。オマエに元気、もらったから。隣に立つまで、待ってろ」
そう、待っててくれよ。
今のオレは、どの道を選択するかまだ選びきれていない。だけど、どんな道を選んでも、もう間違えない。自分自身を信じていける。
オマエと一緒に、歩きたいから。
そう。