white silence
「岩ちゃん、今日の夜泊めて」
短い内容のメッセージが携帯に着信したのはつい30分ほど前。もとからこちらの承諾なんぞ得るつもりがないのはわかっているから、返信しなかった。こういう事は今まで何回もあった。もう動揺しない。
部屋を誰かを入れられる状態にするのに20分、及川のぶんの寝具を調えるのに10分、だいたい終わった頃にチャイムがなる。つまりそろそろ到着する頃合いだ。外はとっぷりと闇に染まっていて、冬の厳しい寒さが肌に刺さるようだった。さぞかし身体が冷えているだろうから風呂でもあたためておいてやろう、なんて考えが勝手に浮かんできて、自分も末期だなあと思わず笑ってしう。
追い炊きのボタンをおして、ふと時計に目をやる。21時55分。おかしい、もう着いていい時間だ。もしかして及川お得意の気まぐれか。そう思って携帯を確認してみるが何の履歴もない。軽い気持ちでつけたテレビでは大雪警報発令なんて言ってくれちゃって、さらに不安を煽られる。
居てもたってもいられず迎えにいこうと立ち上がった瞬間、チャイムがなった。
「遅いじゃねーか」
「うん、ちょっと雪で手間取ってね。思ったより降ってた。慣れてるっていってもナメちゃだめだね」
「そんな薄着できたのかよドアホ。風邪でもひいたらどうする」
手早く雪を払ってやり、濡れてしまった衣服を預かる。これだけ長い付き合いだし、家に泊まることも珍しくないので、及川お泊まり一式セットは岩泉家に常備してある。一通りの着替えと下着。洗面用具。いつの日か、二つ並んだ歯ブラシをみて「カレカノみたい」と笑ったコイツをドヤしたことがあったっけ。
「風呂わかしてあるから入れよ。飯は?」
「食べてない」
「あがるまでに何か簡単に作っといてやっから」
「うん。」
風呂場に消えていく及川の背中がいやに小さく見えて、セイジョーの主将の背中なんかどこにもなくて、でもそれは岩泉にだけ見せるリラックスした一面だということも知っているから、黙って見送った。
静かな家に水栓を捻る音がやけに大きく響く。水が跳ねる音がし始めるのを聞き遂げてから、そっとその場を離れた。
「わ、好い匂い。もしかして岩ちゃん、料理の腕あげた?」
「バカいうな。いつも通りだよ」
「遠慮なくいただいちゃうね」
「おう」
いつも完璧にセットしてある髪が、もとの位置に戻っている。さっきまで寒さで赤らんでいた頬は、今は火照りのために血色がよくなっている。変わらないシャンプーの香りと、消えない及川の匂いが鼻をくすぐった。
「ウマい。岩ちゃん家きて正解だったなー」
「お前、また一人か」
「まあね。いつもの事だし、そういう岩ちゃんだって今日は一人でしょ」
「そういう日を狙って来てんだろ」
「あ、バレた?」
「バレバレだっつの」
そう言ってやると、岩ちゃんは俺のことなんでも知ってんだね、なんてほざく。
(当たり前だろ、ボケ)
食事を終えると何をするでもなくリビングでダラダラして、それから布団に入った。
誰もいない家、二人っきり。
やることは一つだ。たぶん、コイツもこうするのを望んでる。その証拠に、いつも身体の隅々まで綺麗にしてくる。岩泉が手を出さなくても、及川から求めてくる。
本当は愛し合うための行為のはずなのに、愛情なんて微塵もないこの関係で行為を求めてくる及川が、最初は本当に理解ができなかった。だから拒んでみたりもした。
「やるか」
「うん、したい」
「本当にそれでいいんだな」
「…岩ちゃん、今更? 俺がそうして欲しいんだって」
何度拒んでも、及川は求めてくる。一度だけ理由を聞いた事もあるが、寂しいのだということしか言わなかった。女にも困らないし、それなりに人望もあって常に人だかりに囲まれているコイツが寂しいというのは、なんだか滑稽だった。素直にそのことを伝えると、泣きそうに顔をくしゃくしゃにしかめるから、それ以上は何も言えなかった。
「…ね、」
「なんだよ
「今日さー…ちょっと激しくしてほしいなー、なんて」
「…は?」
「もうダメってくらい、もうちょっと言うと、無理矢理って感じにさ」
一瞬の邂逅と沈黙、でも俺に考える余地も選ぶ選択肢もなかった。
「…ああ、わかったよ」
きっと何をいっても無駄なのだ。どんなに寄り添おうと努力をしても、コイツはそれらをすべて拒んで独りで居続けようとするんだ。じゃあ、一体俺はどうすればいいんだ。どうしろというんだ。
着たばかりのはずの部屋着をそっと脱がす。及川が声もなく泣いている。嗚咽で上下する胸をそっと撫でる。
(ああ、どうしてこんなにも心が痛いのだろう)
作品名:white silence 作家名:廣瀬シウ