モータープール
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「主役が脱走してきたのでは、客人たちに失礼ではないのか?イシルドゥア」
テラスの手摺に肘をついたまま首を捩ると、銀の刺繍の施されたローブの裾をなびかせたエルロンドが微笑んでいた。
「弟がうまくやってくれます。あの子は私と違って社交的ですからね」
「今日はお前の生誕祝いの宴だろう、全く…いつまでもそんな風でどうする」
「貴方だって脱走組だ、人のことばかりは言えませんよ」
イシルドゥアは手摺に背を預け、こちらを向いて笑った。
琺瑯の窓の向こうでは着飾った人々が語り、踊り、今二人がいるテラスとはまるで別世界のようだった。エルロンドはイシルドゥアの隣で、同じように手摺に寄り掛かった。
「君の父上に誘われた分の責任は果たしたさ。これ以上、君の花嫁候補たちとダンスをする必要はないし、第一…」
「騒がしいのは嫌いだ、でしょう?」
「ああ。…で、どうするのだ?いずれも美しい令嬢方だぞ」
「この国はまだ安定していませんし、モルドールの動きもある。今、妻を娶っても、淋しい思いをさ せるだけです」
「エレンディルは孫の顔を見たいのだろう」
「それも弟に任せましょうか」
「例の娘はどうした」
何気なく言ったエルロンドの言葉に、イシルドゥアは少し困ったように笑った。
イシルドゥアがいつまでも妻を娶らないのは、他に意中の娘がいるからだと専らの噂であった。それがどこの、どんな娘であるのか、親友であるエルロンドも知らなかった。
いつだったか、二人きりで酒を飲んだ時に、自分と同じように国を一番に思っている、誰よりも美しい人だと言ったのを聞いただけだった。
「好きなのだろう」
イシルドゥアは答えなかった。
「人の命は私達より短いのだ。お前が気にかけていることを全て片付けていたら、相手はあっという間に土の中だ」
「私の方が先ですよ、きっと」
「何を言っている。さ。明日にでもその娘の所へ行ってくるのだぞ」
そう言って、エルロンドは歳若い親友の背中を叩いた。
『父との約定を違え、私の信頼を裏切り、大河の藻屑となったか…愚者には似合いの最期よな。永久に泉下を彷徨うがいい』
エルロンドはローブを翻して歩き出した。
…そう、全ては遠い話だ。