モータープール
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「少し、いいですか?」
三日後にモルドール進攻を控えた晩、城のエルロンドの部屋ににイシルドゥアがやってきた。手には自分の所から持ってきたらしいワイン壜が二本、握られている。
「明日は殿で出るのだろう?いいのか」
「構わないでしょう。片付けることは全部終わらせてきましたから。今晩は久しぶりに貴方とゆっくり話がしたくてね」
「私もそう思っていたところだ」
外では、勝利を願い兵士達が大きな篝火を囲み、酒盛りをしている。その賑いを部屋の窓から眺めながら、二人は戦の話を持ち出すことなく、昔話に花を咲かせた。
「そういえば以前…私に妻を娶れと勧めたけれど、貴方の方はどうなのです」
ふと、思い出したようにイシルドゥアは言った。イシルドゥア自身は、ゴンドール建国の際に妻を持った。今では四人の子を持つ父親でもあるが、エルロンドの方はずっと独り身のままである。
「自分のこととなると面倒でな…一人の方がなにかと楽だし」
「そういう人に限って、まめになるものですよ。何よりも、家族が大切になる」
「知ったふうに言うな。今だって一族のことを思っている。…そうだ。お前、あの娘はどうした。ほら、好きだと言っていた」
そう言った一瞬、イシルドゥアは言葉を失った。が、またすぐに笑みを取り戻し、
「健在ですよ」
と言った。エルロンドは気付かなかった。
「どうしてその娘と結婚しなかった。後悔するだろう」
「その人とは結婚できないんです」
「何故だ?国を愛する美しい娘と言っていたな…」
「エルロンド。私は『美しい人』と言ったんです。娘とは一言も言っていませんよ」
今度は、エルロンドが言葉を無くす番だった。
『まさか』
そう。エルフでも、王族でもないただの人間の娘が、今だに健在のはずはないのだ。
エルロンドが狼狽え、立ち上がりかけるのイシルドゥアは手を伸ばして捕まえていた。エルロンドの手からカップが落ち、ワインが影のように床に広がった。
「酔っているだろう。ダメではないか、この程度で…」
「確かに酔ってはいますね。酒の力を借りないとこんなことも言えない、弱い男ですよ、私は」
いつの間にか、外の酒宴は終わっていた。燭台の灯も燃え尽きかけ、窓から差し込む青白い月の光だけが部屋の中を染め上げている。
イシルドゥアの腕に抱き竦められながら、エルロンドは今更になって、この男が恐ろしいと思った。自分を含め、他の者たちにも悟られぬよう、何かを目論んでいるのではないか。いやそんなことではない、恐ろしいのは、この男の不器用で真直ぐな心だ。
エルロンドは、イシルドゥアを抱き締め返すことができなかった。
…と。肩からイシルドゥアの顔が離れていくと同時、二つにまとめていたエルロンドの髪の右側だけが解けた。
「少し意地が悪かったですね。…お守り代わりに、これ、頂いていきます」
そう言ったイシルドゥアの手には、オニキスと銀の髪飾りが摘まれていた。そしてドアノブに手をかけたまま、
「エルロンド。私達のように命の長い者が身に付けた能力と言うのがあるんだそうです。ご存知ですか?…忘れることだそうです。何百年と生きる間、辛いこと苦しいこと全部憶えていたら、それだけで死んでしまう」
一息に言って、こちらへ微笑みかけた。影を含んだ、悲しい顔だった。
「忘れてしまうんだそうです。悲しいことも、愛することも」
おやすみなさい。
イシルドゥアはそう言って、部屋を出ていった。
残されたエルロンドは、空っぽになったように、滝のようにこぼれ落ちる髪をかきあげた。
『…忘れてしまう、だと…お前は、何を心配しているのだ…?』