恋ならば
本田菊は、そんなはずのない胸を押えてうろたえた。ありえない失態。歯が自然とかみ合わず、眼球が忙しい。さまよう黒目は、それでも緑の異色を捉えてしまう。
「I love you」
緑の目を持つ、アーサー=カークランドは憤る本田に乞うようなまなざしと言葉を贈る。落ち着いた風とは言えない。一見するとあどけない。淡い紅に染めた頬は隠せない。それでも目には焦りはない。あるのは、ひたむきな慈愛。
「Kiku,I love you」
本田はますますうろたえた。動揺するだけじゃない。痛かった。普段の本田菊ならば、表情一つ動かすこともなく、曖昧な返答や上手なかわし方も、中庸などお手の物であろうに。それができない今、本田はいつもの彼ではなかった。胸に重い疾患を抱えたような、不安。カークランドのまっすぐでやさしい目と言葉が向うのはまさしく自分なのだと、自覚した途端にのしかかったそれは、長く生きる本田には聞き返すまでもない代物だった。動揺と驚愕だけで片付けるには、鼓動が黙っていなかった。文字通り、痛いほどわかっていた。
それでも、認めてしまったなら、それは変化が訪れるということだ。本田菊は変化を恐れる人だった。躍進は嫌いではない。ただ、未来の確証のない変化を厭う。胸に今抱えるものは、恐らく、カークランドへの返答になるだろう。そしてそれを差し出せば、これから彼とは、ある意味すべてを真っ白にしてやり直さなければならないだろう。それが変化だとするなら……本田は踏み出せない。このままで、いいではないですか。弱い目と口がそう答えたいと願っている。
カークランドは、そんな本田を辛抱強く静かに待っていた。迫ることはしない。その姿勢がますます本田を追い込む。待っているのだ、答えなくては、けれど。逃げ出してしまいたかった。なかったことにしてしまいたかった。とうとうまともにカークランドを臨むこともできなくなって、視線を背けてしまう。
その時、本田は気が付いた。カークランドの膝は、実は細かに震えていたということ。怖いのは、本田だけではなかったのだ。それを思うと、胸に入っていた何かが呆気なくはじけたような気がした。衝撃はない。代わりに飛んだのは科白。
「私は」
乾いた喉を一度震わせてしまったのだから、本田は変化に立ち向かうしかないと決めた。一度ゆっくり目を閉じて、そして開く。俯いた目を高くすれば、カークランドの肩がほんの少し上がっていたっことにも気付いて。本田は、そんな彼を香しく感じて。
「あなたを、お慕いしています」
ひとつ笑みを乗せて、ひと思いにそう告げた。胸の疾患の代わりに今更やってきた羞恥に、本田が今度こそ逃げようとしたその前に、華奢な体は大きな腕に囲われた。